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2009年6月15日 (月)

そして死刑は執行された

著者 合田士郎 恒友出版

先日、茨城の土浦連続殺傷事件で、容疑者の父親が、息子が死刑になっても仕方がないと証言したというニュースに、暗澹とした切ない気持ちになってしまいました。

親子の幻想が完全に崩壊したのかなぁと。。。世界中の全員が鬼畜だ、悪魔だと自分の息子にレッテルを貼ったとしても、全身全霊で両親だけは息子の味方になり、自分が身代わりになってもいいから、なんとしてでも死刑を回避させて、命を救ってやりたい、そう願うのが親の心なのではないかと思っていたのですが、違ったようです。

なんだかとても寂しいことだと、思ってしまいました。

この容疑者は、実の親にも見捨てられてしまったのだ、、これでは反省や改悛などできる筈もないと。。これまでの人生で、この容疑者は、心を赦せる大人と一度も出会うことが出来なかったのかなぁ。。と思うと残念でなりません。これから先、ひょっとしたらそんな大人に出会える可能性は残されています。そのとき、はじめてこの容疑者も改悛の情を抱き、自分の犯してしまった罪の重大さ、恐ろしさに後悔の念を抱く日がくるかもしれません。その日が訪れていない人に対する死刑という刑罰は、まったくもって無意味だということを、本書では語っていると思います。

とはいえ、本書の著者は仮名であり、出版後に刑務所等からクレームもあったということであり、内容の信憑性も疑問が残るのですが。

本書で登場する著者は、人をひとり殺めて、無期懲役になっているのに、読めば読むほど、改悛の情を感じることができないのです。被害者の遺族は、この著者に赦しの手紙を送っていたようですが、本書を読むと、加害者の改悛は口先だけのようにも思えてしまうのです、しかし、この著者の人生経験に照らし合わせると、この改悛の情のレベルでも十分なのかもしれません。

他者への愛情、思い遣り、いたわり、不正や暴力に対する嫌悪、道徳心、恥の感情などは、生まれてきたときから身につけている能力ではなく、手本となる大人(それは大抵は親や家族ですが、さらに、隣人や教師、またテレビに登場する大人も影響力は甚大だと思います)の存在がなければ身に着かない能力だと思うのです。

わたしがこのブログでも何度も書いてきているように、安直な死刑や、少年法の低年齢化に疑問を覚えているのも、半端な教育制度と、半端な福祉制度をタナにあげて、無知や貧困からくる暴力や犯罪を厳罰という権力による暴力で押さえつけることが、本当に文明国家といえるのかということなのです。遺族の悲しみを癒すのは加害者への厳罰ではなく、社会全体でのケアが必要なのだと思うのです。

そして、本書では、冤罪の問題も語られています。知的障害者や、第三国人への差別による暴力的な冤罪によって、すでに無辜の人の命が、死刑によって失われている驚愕の事実も語られています。

つい先日、足利事件の冤罪について、麻生首相は、取調べの可視化について、「可視化によって冤罪が減るとは感じていません」という理由もないコメントをしていることを耳にして、いつか自分が冤罪の被害者になって強引な自白をさせられて死刑にでもされない限り、この人には、無辜の国民が冤罪という苦しみに何度も陥れられたということに思いを馳せることは出来ない想像力のかけらも持たないひとなのだなと、がっかりしました。(なんどがっかりしたことでしょう)。

ノンフィクションということですが、作者が仮名でもあり、100%の真実が語られているかはなんとも言えませんが、死刑ということをもう一度考え直す上で、一読の価値のある一冊だと思いました。

たまたま、友人Sが死刑制度に関心をもっていて(彼は死刑賛成論者ですが)、何度も死刑については、議論する機会があり、お互いに多くの死刑関連書籍を読み、知識を増やしながら論争を重ねています。

それでも、死刑について、納得の行く答えはまだ出ていません。

そんな中、裁判員制度は見切り発車となってしまいました、空恐ろしくも感じています。

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