« 高橋優 | トップページ | 天皇陛下の行幸 »

2011年4月28日 (木)

離別の受け止め方

震災後、何人かの友人と飲みに行きました。

そこで、人それぞれ、死や離別という観念への受け止め方のなんと違うことだとうと、驚きを覚えます。

わたしは、祖父の死、友人の急死という、死という別れだけでなく、友人との絶縁、祖母の認知症など、死以外の理由での、親しい人とのわかれでも、喪失感を味わい、長生きするということは、自分の身体(精神?)の大切な一部が、すこしずつ欠けていくものなのだと思って暮らしていました。

でも、誰もがそういう考えをするわけではないのだな。ということも気がついてきました。

政府が国民の命より、国益を優先し、電力会社が国民の生活や健康や生命より、会社の経営や株価を優先し、石原都知事に投票した東京都民の261万人もの人が、自らと家族の健康や生命の安心より、便利や利益や快適を優先させている現実をみると、人の命なんてものは大したことないのだと、思っている人のなんと多いことかと、、驚かされてはおりました。

でも、考えたら、この震災前から、日本国民は世界の紛争地や貧困地帯で、何百万人の人が死のうが、病気で苦しんでいようが、飢えていようが、貧しい子供や女性が虐待されようが餓死しようが、マイノリティが差別されようが迫害されようが、特に気にかけず、さらに、自国民が毎年3万人以上、病気や生活苦で自殺をしていても、それすら、大して気にせず、暮らしてきたのですから、それほど人の生死に関心のある国民ではなかったのだろうなぁと思ってはいました。逆に、今回の地震で、急に家族を失った人々に同情。。というのも白々すぎる話なのかもしれません。

とはいえ、身近な友人から、直接に「地震も津波も、怖くない、死ぬときはだれでも死ぬ、あきらめが肝心」とか、「親が死んでも、友達が死んでも、それはその人の寿命だと思うからそういうものだと受け止める」とか、「日本の人口は1億2千万もいるのだから、2~3万人くらい死んでも、大した数じゃない」など、具体的に聴いてしまうと、少なからずショックを受けけました。「じ、、じゃあ、もし、明日わたしが死んでも、あんまり悲しまない?」とたずねたら、少し考えて、「ま、それが運命だと思うよ」と言われると。。ああ、そうですか、、と納得してしまいました。。その考えが絶対に人として間違っているとはいい正せなかったです。

「人の命は大切」という考えは、実は「自分にとって大切な人、愛する人を失いたくない」ということのみが真実で、アカの他人、見ず知らずの人の死は、気の毒とは思っても、特別に悲しいことではないのかもしれません。

つまり、死を悲しむ心というのは、とても利己的な、相対的な、ある意味、趣味に近いというか、死や離別にたいする悲しみというものは、とても個人的なものだったのなのだなぁ、とつくづく思ってしまった次第であります。

とはいえ、わたしにとっては、身近な人との死や別れは、とても悲しいことに変わりはないので。。だから、アカの他人の人が、やはり身近な人をなくしてしまったことに、深く同情と、哀悼を覚えてしまいます。
ですが、人の感じ方はそれぞれだということです。

今回の大震災であらためて認識してしまいましたた。

人が必ず死ぬのが分かっていて、兵器を平気で作る人たちが世界には大勢いるのだから、、原発いわんやということでしょう。

|

« 高橋優 | トップページ | 天皇陛下の行幸 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/101019/51514348

この記事へのトラックバック一覧です: 離別の受け止め方:

« 高橋優 | トップページ | 天皇陛下の行幸 »