カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2009年11月10日 (火)

サーカスの子供

著者 ジョンアービング 新潮文庫

この2週間はずっとこの「サーカスの子供」を読んでいました。

「ガープの世界」「ホテルニューハンプシャー」など、、読み応えのある本を世に送り出す作家だとわかっていたのですが、久しぶりに文庫で新刊が出ていたので購入してしまったら、、いや~~面白かったです。やはり読み応えたっぷりでした。本当に読書が楽しい2週間だったと思います。

(ただし、彼の作品には、必ずといっていいほど、リアルに性的で暴力的なシーンが登場するので、そういうところが嫌いという読者も多いとおもいます、本書もその他の作品にたがわず、そういうシーンが何度か出てきます)。

作者はインドには一ヶ月しか滞在したことがなく、本書を書き上げたといいます。創作って、物語ってこういんだよな。そんな風に思えた作品でした。

インドを舞台に、サーカス、不具な子供たちのための病院、富裕な人々が過ごす高級会員制クラブなどをメインの舞台に、主人公の整形外科医とサーカスの小人、映画監督や脚本家、俳優や女優などハリウッドの人々、イエズス会の僧侶、ヒンズー教徒、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、連続殺人犯、ヒジュラという男でも女でもない立場で暮らす人々、売春宿、ドラッグの売人、エイズ患者などなどなど、が繰り広げるストーリーは、まるでアラビアンナイトを読んでいるかのようでした。

インドの光と影、富と貧困、東洋と西洋、人生観、哲学、生命、、いろいろなことを順繰りで深く考えてしまう、そんな複雑なストーリーになっていました。

あまりにも深刻な貧困や格差に手の施しようがない善良な心の持ち主は、自分の善良ではない身勝手な心に苦しむことでしょう。足が不自由な浮浪児を救いたいと思い、サーカスに入れようと奮闘している宣教師に、主人公の医者は、「そんなにあの子に慈善がしたいなら、どうして養子にしないんだ?」とそれは言わない約束のひとことを言ってしまう。。「宣教師は、それではあの子たちの自立にならない」と抗弁しますが、医師はその言葉に「空々しくて反吐がでるね」と切り替えします。(ぜひとも曽野綾子に言っていただきたいセリフです)

結局はいくら宣教師でも自分の身内でもなんでもないから、慈善は中途半端になってしまうのだろうか?出来る限り最善などというが、、どうかんがえても最善なのは養子にすることなのに。。それでは子供を甘やかすことになるんでしょうかね?

本書で何度か登場するイエズス会批判は痛快でした。ローマ法王は何故あんな豪華な法衣を脱ぎ捨てて、ジーパンでもモンペでもいいからラフな服装で困っている人たちを助けにいかないのか。豪華なステンドグラスのある教会など作らずに、そこは子供たちの無料学校や避難所にすればいいのに。神に祈るのに場所など必要ないと思うのに。いつも疑問に思っていました。カトリックはそういう宗派だからってことで納得するしかないのでしょうね。

(一部の仏教のお坊さんも偉くなると服装がど派手になるのも同様に疑問ですが、あれは仏教界のカトリックと考えればよいのでしょうか?)

本書の主人公の医者は徹底的に信仰嫌いでしたが、あるとき改宗してちょっとだけキリスト教徒になったりします。そのへんのくだりも非常に面白いです。

いくつか、心に残った節を書きとめておきたいと思います。

わたしはもう三十九ですよ。もし司祭になるんだったらとっくになってなきゃおかしいんです。三十九にもなって、まだ”天職を見つける”だなんて浮ついたことを言っているようじゃ、きっと駄目なんです。

天職かぁ、、世の中に暮らす三十九歳以上のひとびとはみんな天職についているのかなぁとふと考えてしまいました。

暴力は不変だ。いつだって、最後まで残るものは暴力なのだ。

インドで頻発する暴動に対する主人公の思いですが、、悲しい言葉でした。。

暴力や貧困、差別、、そんな世界で決して美しさを失わないもの、、それは夢想。。空想なのでしょうか?だとしたら、宗教や物語は世界に必要ということになりますね。

誰かと、この本について語り合いたいです。会う友人には必ず勧めてみようと思います。

ちょうどこの本に出会うちょっと前に、本屋で「できるかなシリーズ」を立ち読みして、作者の西原理恵子がインドでヒジュラのお祭りに行く話を写真入りで見ていたので、ヒジュラについてはすんなりとイメージが湧きましたが、本書だけだと日本人にはとてもイメージがわかないかもしれません。ニューハーフというか、オカマちゃんというか、そんな感じの存在ですが、宗教的な儀式に呼ばれ踊りや祈祷などをする畏怖される存在であり、同時にカーストの世界では最下位に属して差別される不可触賎民だということです。

本書を読むと、世界は広いな、大きいなと嫌でも思ってしまいます。本書のストーリー自体が小宇宙そのもののようにも思えました。

自分はいつかインドに行くことがあるのでしょうか?とても行ってみたいような、でもあえて行かなくてもいいような。。そんな気持ちにさせる一冊です。

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2009年10月20日 (火)

向日葵の咲かない夏

著者 道尾秀介 新潮文庫

本屋さんの目立つ場所に平積みされていたりするのをよく見かけましたので、読んでみました。未読の方は、面白さ半減するだろうネタバレ満載の感想です。。

えええっっつという展開なのですが、読者の受け止め方が2通りあって、一つは結局はルースレンデルの小説によく登場する、妄想の世界に生きる精神の異常な人間が起こす悲しい殺人事件というストーリーとしての本書。もうひとつは、ファンタジーというか、スピリチュアルというか、実際に殺されたり、死んだりした人間が生まれ変わって蘇えり、主人公にミステリーについてアドバイスを与えながら謎を解決していくというストーリー。。(生まれ変わって転生するのが、昆虫や蜘蛛だったり爬虫類(トカゲ)やら植物(百合)、哺乳類(猫)だったりするのですが、なぜか体の大きな熊とか馬とかもちろん人間とかには生まれ変わらないところなどから(話の構成上、主人公が親にかくれて部屋にこっそり隠しておけないから?)推測すると、やはり転生はなく、すべて主人公の妄想というストーリーとして読むのが正しいのかもしれません。生まれ変わった友人や妹が、コアラとかパンダとかアルパカやレッサーパンダなどに転生してくれて、主人公の家まで訪ねてきてくれたら、ストーリーはメルヘンになったのに。。。なんて。。

全体の感想としては、なんだか、とても薄気味の悪い小説でした。作者は、本書に登場する教師、岩村先生に実際の性格というか、精神面が近いのでしょうか?ある意味、変態じゃなければ、こういう小説をあんまり考えつかないような気がしてみたり、しなかったり?バタイユとか、夢野久作とか、江戸川乱歩とか、そっち系のファンを選ぶ小説家なのでしょうか?

このストーリーは、最後に刑事や精神科医がでてきて、実はこのトリックはこうだったのだときちんと解説してくれたほうが、おおそうだったのかと、もっと面白くなるような気もしてしまうのですが、、その刑事や精神科医の役は読者がご自由にどうぞっていうことなのでしょう。

そういういえば、先日読んだ夏目漱石の「こころ」もそういう中途半端な小説でした。どうして作者が生きているうちに、詳しく解説やら続編を書いてもらえなかったのか、不思議なほどです。

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2009年10月19日 (月)

こころ

著者 夏目漱石 角川文庫

先日文庫版「こころ」がブックオフで105円で売っているのを発見し、、夏目漱石の本を売る輩がこの世に存在するのかと、、本棚から救出しました。

といっても、「こころ」って良く考えたら高校の教科書以外でちゃんと読んだことなかったかもしれない。。と思い読み早速読みました。。

本書、実は、アンタイラーの「もしかして聖人」に似ているストーリーだったのです。

自分の思慮の欠けた言動で親しい人が自殺に追いやってしまったと思い込み、、何年もの人生を幸せになれずに深く思い悩むストーリーです。

「もしかして聖人」の方は、兄が自殺したときにつきあっていた彼女と別れてしまいますが、本書の先生はそのまま結婚してしまう違いはあるのですが(なんとなく、友人の自殺の原因の理由の一部が交際中の彼女であった場合、その彼女とは結婚できなくなってしまうような気がしますが、ここで結婚してしまう先生の精神状態というか、結婚させてしまう夏目漱石の意図が不思議です。でも、西洋のオペラにも似たような話があったような。。兄や友人の命よりも恋人優先?)

「こころ」の主人公にしても、「もしかして聖人」の主人公にしても、本当に自分が原因の自殺だったかも定かではないのに、ずーっとずーっと思い悩みます。

人として当然なのかもしれませんが、一国の総理で国民の命を守る立場にいる人物なのに、異国で拉致された自国民の前途ある若い青年を「自己責任」という法律でもなんでもないひとことで見殺しにした直後でも、平気でプレスリーの真似をしたり、ウルトラマンの声優をしたりする図太い人物もいる世の中ですから、それを考えると、この本に登場する「先生」の繊細さは度を越しているようにも思えます。「先生」の性格が元総理Kと一緒だったら、100年間読み続けられている「こころ」という小説は誕生しなかったわけですけれどね。

「もしかして聖人」のイアンは「人は誰でも誰かの人生に影響を与えているんだよ」という言葉に救われますが、「こころ」の先生は、誰かにそのような言葉をかけてもらう前に、遺書を残して旅立ってしまいます。

自分がKの自殺で何年も苦しんできたというのに、妻や主人公の私を残して自殺するというのは、どういう理由なのでしょうか。妻や私も同様に思い悩むかもしれないのに、です。「行人」に登場する一郎と同様に、この先生も、自分が世界中心にいて、自分以外の人物は自分の付属物のように思っていた人物として、夏目漱石は考えていたのでしょうか。

「こころ」に登場する先生は、はやく心理カウンセラーや精神科医などに相談していたら、自殺をすることもなかったのかもしれませんが、ひょっとしたら、先生が好きだったのはお嬢さんではなく、Kだったという、ボーイズラブ系のストーリーとして読み解く人もありそうです。

本書の冒頭で鎌倉で一緒に泳いでいた西洋人も、先生の恋人の一人だったのでしょうか?

夏目漱石研究家は山のようにいるようですから、きっと既に様々な推測や解釈がされているのでしょう。

本書は、前の持ち主が、ずいぶんと赤ペンで傍線を振っていましたが、傍線を振っている場所が、統一性がなく、意味不明なうえ、後半の「先生と遺書」では全く赤線がなかったので、ひょっとすると、「両親と私」の章で挫折→ブックオフへ売り飛ばしだったのかもしれません。せめて、傍線+書き込みしてくれていたら楽しかったのに。。

「こころ」は人と感想を語り合いたくなるような本だと思います。

読み終わったら、ブックオフに売り飛ばさずに、友人知人に譲り渡すことを是非お薦めしたいと思います。

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2009年10月 7日 (水)

ティンブクトゥ

著者 ポールオースター 新潮社

最近、本屋で「星守る犬」というマンガを立ち読みしたばかりだったので、どうしても、このマンガに登場するご主人のおとうさんと犬の関係が本書に登場する主人のウィリーとミスター・ボーンに似ていると思いながら読んでしまいました。

それにしても、主人のウィリーが飼い犬に語りかけるセリフは哀しい

俺だって浮浪者になりたいなんて思ったことは一度もない。そういうのを目指したわけじゃないし、自分の未来をそんなふうに夢見りはしなかった。リサイクル箱で空き壜漁るなんて計画じゃなかったし、フロントガラスに水かけたりするって計画でもなかった。教会の前でひざまずいて、大昔のキリスト教殉教者みたいに目を閉じる、通行人が哀れんでくれて十セントか二十五セント握らせてくれるようにと(中略)俺はそういうことをするためにこの世に連れてこられたんじゃない。だけど人間、言葉だけで生きるわけじゃないからな。パンも要る、をれも一斤じゃダメで二斤要る。一斤はポケットに、一斤は口に。パンを買う金だよ、わかるかい、あとの方のがなけりゃ、前のも絶対に手に入らない。

ところが、飼い犬のミスターボーンは、野良犬について、こんなことを考えていたのです。

これまで家のない犬には何度も出会ってきたが、そのたびに憐れみの念しか感じなかった。憐れみと、わずかな嫌悪感。彼らの生活を包む哀しさは、あまりにも生々しくて考える気にもならず、彼らとはつねに一定の距離を保つように気をつけていた。(中略)彼らが抱えている病や絶望が伝染するのが怖くて近づく気になれなかった。ひょっとしたら自分は、貧しい者を見下す俗物に成り下がったのかもしれない。

犬の口から、語らせていますが、本書を経団連の方々をはじめとする、拝金主義者のが読んだらどのように感じるのか、気になるところです。

やっぱりキャノンの御手洗氏のように「わたしの責任ですか?」あたりのすっとぼけた感想を言うような感じ方しかできない、というか感受性がないのかもしれませんね。

皮肉な小説だと思います。物語の最後はフランダースの犬のようでしたが。。やはり経団連をはじめとする拝金主義の方々は、フランダースの犬を見ても「けっ貧乏人と汚い犬めが」とか思うのでしょうか?

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2009年10月 1日 (木)

日本語の起源

著者 大野晋 岩波新書

森村桂の小説「青春がくる」にこの教授と本のタイトルが登場して、興味を覚えて本書を入手しました。

本書は、日本語の起源をインドのタミル地方とあたりをつけて、両方の言語のひとつひとつの単語や文法などを照らし合わせてゆく膨大な作業を行っています。

例文が山のように登場するのですが、解説では共通していると書いてあるのですが、言われてみれば共通しているようにも思えてしまいますが、ほとんどの単語が共通しているとは全く思えず、本当にタミル語が起源なのか、しかも延々と続くこの照らし合わせの説明に、読んでいてだんだんと眠くなってしまったのですが、、それにしても、この教授の日本語の起源追求に対するマニアックなまでの情熱、膨大な時間とお金を使って研究をさせてくれるこの大学の環境(学習院だからなのか、日本だからなのか)、時間、金というものはこういうことに利用して、人智というのは栄えるのだと思い至り、貧乏にの自分には、なんて暇で酔狂な作業を。。。と思ってしまったりすることに恥じ入ってしまいました。

しかも、ここまで研究しているのに、日本語の起源はタミル語だとして日本人に浸透しているのかというと??という感想です。

それにしても、同じようにタミル語の研究をしている、インドのアルナサラム・サンムガダス教授ものことも、まったく聞いたこともない知らない名前でしたが、その方面では権威らしい。。おそらく、、実業・実生活では知っていても知らなくてもどちらでも生きていけるという内容の学問に対して、こういった山のような潤滑な資金と有り余る時間でこういう研究をしている学者さんが、世界中の大学にいるんだろうなぁ。。。と羨ましく感じてしまいました。

しかし、殺人兵器の開発や金儲けの研究を熱心にしている学者さんよりは、とても平和で夢があって素晴らしい仕事だと思いました。

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2009年9月29日 (火)

僕は人生を巻き戻す

著者 テリーマーフィー 文藝春秋

本書は、重度の強迫性障害を負った青年エドが、専門医のマイケルや、妻アマダとの信頼関係を築きながら、自分自身の治りたいという強い意志と信念から、徐々に障害を克服してゆく過程を描いたノンフィクションです。

人には少なからず強迫性障害のような行動を取ってしまうことはあると思います。

大抵は理由がない行動ですが、きっかけはひとそれぞれ、ガスの元栓を何度も確かめずにいられない人は、以前ひょっとしたら一度元栓を閉め忘れて恐い思いを体験したことがあるかもしれません。

何度も手を洗ったり、家中を掃除したり、電車の吊革が触れなかったり、、といった、不潔恐怖症の人も、何か極端な不潔で不快な思いをしたことがあるのかもしれません。

自分も、田舎暮らしなのに、昆虫が恐く、とくに蝶々や蛾などひらひらと飛ぶ昆虫が恐くてしかたありません。子供のころは平気だったので自分でも理由がわかりません。

強迫性障害とはすこし違うのかもしれませんが、他の人は大丈夫なのに、自分はどうしてもなにかが出来ない、克服できない、など、様々な回避行動を取ってしまうというのは、本書で登場するエドの行動と共通している気がします。他の人はふつうにピーマンを食べられるのに、自分はどうしてもダメとか、ジェットコースターにどうしても乗れない、とか。おまじないとか、ジンクスというのもなにか強迫性障害の回避行動に近いのかもしれません。

エドは、この出来ないことや決まりが極端に多すぎて、何かを行動するためには、さまざま儀式を終えないと次に進めないことで、消耗してしまい、日常生活を送れなくなってしまいます。

自分の満足・納得する世界に生きるためのルールが、エドの心に安心を与えることと引き換えに、余りにも多くの代償を支払うことになってしまったのです。最初は、このエドの心の苦しみを理解できなかった家族の影響で、症状はますます悪化してしまいました。

ですが、医師マイケルが、重篤化し、回復の望みのないエドのために流した涙を見たときに、エドの心の中で、なにかが変わったのです。この病気のために、自分を愛してくれている人を悲しませたことに対して、この病気が憎くなったのです。

こうして、エドはマイケルを喜ばせるために、自分で決めた心を安全にする儀式を改善し、徐々に、家の外に出られるようになっていきます。そのためには、家族や友人、職場の同僚の理解が必要でした。

エドの周囲には、多くの善意の人がいたのです。彼の恐怖を理解し、嫌だと思うことを避けるように手助けしてくれたり、困難を乗り越えるための工夫に協力してくれた多くの善意の友人や家族がいたのです。また、娘たちに強迫性障害の影響が出ないようにと、娘たちのまえでは自然と恐怖に打ち勝つことができるようにもなれました。

本書を読んでいると、絶望的な困難に直面しているたったひとりの、青年のために、多くの気遣いや、時間的な犠牲や関心を払う多くのアメリカ市民がいるのに、、一体どうして、イラクやアフガニスタンで命を落とす子供たちへの気遣いや関心には至らないのだろうという不思議に思いました。

多くのアメリカ市民は善意の人であふれているのに、他国で起こっている悲劇を知らないのではないか?という疑問すらわいてきました。本書で登場するマイケル医師は、ベトナム戦争に従軍した時に、「戦闘機パイロットは行き当たりばったりであちこちにいかされる。そして見ず知らずの人を殺す。本当にその人が殺されるべきかも知らないまま」。マイケルはこのすべてを正当化することが出来ず、人がたくさんいる場所で撃たねばならなかったら、たぶん的をはずすだろうと認めているのだから。そして、何十年たった現在も、ベトナム戦争のPTSDでも苦しんでいるのです。

もしも本書に登場する善良なトラック運転手やスーパーの店員やスポーツジムの友人たちが、イラクで死に掛けている子供をリアルに近くで見かけたら、おそらく彼らは居ても立ってもいられずに、自分に何かできることはないですか?と駆け寄っていくのではないかと思ってしまうのです。

それとも。。このエドは、どこから見ても標準的なハンサムな白人だから、、人が助けたいと思ったのでしょうか?そんなことはないと思いたいです。本書の最後の出来事は2008年の描写です。つい最近までエドにおこっていた実話なのです。そう思うと、ブッシュ政権下の暗黒時代でも、人の心を失わない優しい人々は、アメリカに溢れていたと考えてもよさそうです。

それにしても、、本書に登場する善意と人たちの住む同じ国の人たちが、エドの回復に心を砕いていた丁度同じ時期に同時に何万人ものイラク人の命を奪っていったのだという事実を考えると、その皮肉さに心のバランスを失ってしまいそうです。

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2009年9月28日 (月)

孤独の発明

著者 ポールオースター 新潮文庫

0とAとの会話。老人になってどんな感じがするかをOが語る。七十代を向え、記憶も怪しくなって、顔は半分閉じた手のひらのように皺深い。OはAの方を向き、首を横に振りながら、何食わぬ顔でこう言ってのける--「小さな子供がずいぶん妙な目に遭ったもんだ」

マイケルジャクソンや、山下清が味わった苦悩?ひょっとしたらポランニーも?

元アメリカ大統領カーター夫人が、カンボジア視察に訪れた話。。取材陣は患者の手をふんずけ、点滴のチューブを足で引っ掛け、患者の体は蹴飛ばされた。。そして、視察の最後に、アメリカ人医師は、カーター夫人一行に要請した。どうかお願いです。どなたか少し時間を割いて、献血をしていただけないでしょうか、、と、だが、、その答えは

一行はスケジュールに遅れていた。その日のうちにまだほかにも行くべき場所があり、もっとたくさん苦しむひとびとを見なければならなかった。時間がないんです、と彼らは答えた。残念ですが。まことに残念ですが。訪問者たちはそう言い残して、来たときと同じようにあわただしく去っていった。

むなしい。。ですがこれが真実です。。

それにしても、この本のストーリーのどこに、よしもとばななが感銘をうけたのか、まことにもって謎です。点滴をしたカンボジアの患者を取材クルーが蹴飛ばした話がよかったのかな?

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2009年9月18日 (金)

偶然の音楽

著者 ポールオースター 新潮文庫

この作品は映画化され、日本では、小栗旬と仲村トオルで舞台化もされているんですね。

登場人物が少なく、舞台にしやすいのでしょうが、大金持ちの屋敷のセットは舞台でどうしたのか、気になるところです。

ルースレンデルの哀しきギャロウグラスを彷彿とさせる、男同士の不思議な友情、愛情を描いてたり、また、意味不明な不条理感が作品全体に漂っていて、カフカ?カミュ?ボリスビァン?アメリカ人が書いた小説というよりは、フランス人が書いた小説のようであります。

不条理な内容なのですが、一度、読んでいただきたい、その理由は、読めばわかると思います。

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2009年9月11日 (金)

アルゼンチンババア

著者 よしもとばなな 幻冬舎文庫

雑誌Hanakoの記事で、ロクな人物ではないと思ったよしもとばななですが、現在読んでいるポールオースターの「孤独の発明」のあとがきをよしもとばななが書いていて、「シティオブグラス」を読んでこの作家が気になり、出版社の友人のコネを使って(さすが人脈自慢するだけのことはあります)インタビューしにニューヨークまでポールオースターに会いにいったという話を読んで、友人を使って好きな作家に会う手はずを使うその人間性はまともかどうかについてはさておき、ポールオースターという作家の良さがわかるんだ、ということを知ったので、ちょっとだけ彼女の評価がアップしました。人格が破綻していたり、常識外れだったり、人として、ロクな人物じゃなくても、素晴らしい作品を作るアーティストも数多いだろう、と思いなおして(かといって、人間的には好きになれない作家の本を買いたくはないので)、昼休みに本屋で立ち読み。本書は一冊15分で読み終わりました。

奈良美智のかわいい表紙、なぜかページの両端と下に3センチほどの空白があり、字も大きくして、むりやり80ページにして一冊540円?でも、ファンは買ってしまうでしょう。ブランドっぽい印象がありました。

これだと、フラナリーオコナーの短編集1200円はむちゃむちゃ安いんじゃないかって思ってしまうような装丁であります。

そして、読んでみた感想です。感想は、やはり「キッチン」のころと同じ大島弓子の劣化コピー。少女漫画を読まない読者は読みやすくて面白いと感じるかもしれません。

突っ込みどころも満載ですが、読書初心者の女の子とかが、読書好きになってくれるなら、こういう本もありだと思いました。

でも、よしもとばななばっかり読んでいる女の子が、ポールオースターとか、読むのかな?でも、よしもとばななが好きだからってつながりででも、読んでくれるようになるのなら、よしもとばななの存在価値は十分有りと思います。

ゴミ屋敷の住人を美化して、社会的な存在価値を認めさせようっていう、そういう夢見がちな、優しい気持ちでこの作品を書いたのかもしれませんが、おおくのゴミ屋敷の住人が、セルフネグレクトという自分自身を大切にしない、自分が自分を虐待するという、社会のケアが必要な場合がおおい、そのまま温かい目で見守るのではなく、どうして自分をネグレクトするのか、関わっていかなければならない。一緒に汚い部屋に住んでたら、セルフネグレクトの住人が単にふたりに増えただけ。物語前半で、母親の死で、体は乗り物と同じだから、メンテナンスして大切にしなければ、健康にも気を使うようになったと主人公が言っているのに、途中から、ゴミ屋敷に暮らすふたりの臭さや汚れを気にならなくなったというのは矛盾している。まず、清潔にして暮らさないと喘息やアレルギーにもなるし、食べ物の黴や、お風呂に入らずに皮膚を不潔にしていたら、癌などにもなりやすい。生まれたこどもをゴミ屋敷で育てたら、アトピーにもなるだろう。。

でも、本書は、そういう現実的なことをつっこんではいけない、おとぎ話のような、ストーリーなのでしょう。

ところで、自分もハンドルネームやらメールアドレスにもイルカを使うくらいのイルカ好きなので、イルカ好きのお母さんのくだりはうなずけた、でも墓石が全部イルカだったら、なんだか墓地がクリスチャンラッセンの即売会場みたいになってしまって嫌かもしれない。。

それにしても、立ち読みで読んで、作品の内容が説明できるくらいストーリーが印象に残っていのですから、人間性は悪くとも、才能のある作家さんなのかもしれません。

多分、若い頃から、実力以上に作品が売れてしまい、謙虚さをもちあわせずに勘違いしたまま成長してしまった、おとなこどもなのかもしれないなぁという印象を持ちました。

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2009年9月 6日 (日)

著者 江上剛 講談社

本書は、高度経済期から、バブル、バブル崩壊後までの日本と、お金を貸す銀行側と、融資を受ける製造業側を描く大河小説です。

本書に登場する中部日本銀行、三友銀行、WBJ銀行、東都菱光銀行、住倉銀行、桜花銀行はそれぞれ、東海銀行、三和銀行、UFJ銀行、東京三菱銀行、住友銀行、さくら銀行(太陽神戸三井銀行)と思って読んでいいのでしょうか?

まぁ、フィクションですので、違うとしても、そう思って読んでも楽しみ方は人それぞれかと思うのですが。。

大学の先輩に、某都市銀行に入社したEさんという先輩がいます。

ゾウさんの目をした心底優しい先輩でした。マジメで、卒業して、銀行に就職先が決まったときも、まさに銀行員にビッタリという先輩でした。当時の銀行員には、とてもクリーンで誠実といったイメージがあったのです。

ところが、昨年、十数年ぶりに、友人の葬儀で、Eさんに再会して驚きました。

何があったのでしょうか。やつれて、疲れた姿。優しいゾウさんの目は哀しい目になっていました。先輩の銀行も子会社に消費者金融を持つようになり、バブル崩壊後は、ひどい貸し剥がしや、貸し渋りなどを行った話も少ししていました。もともと優しい先輩にとって、家族と自分を支えるための仕事と割り切ったとしても、さぞかしの心労だったのではないかと思います。

心を鬼にしないと、銀行員が勤まらないなんて。。もっともクリーンな職業とイメージされていた時代から、時をへて、尊厳を失ったダークな金貸し業にいつから銀行員はなってしまったのでしょうか。

本書を読みながら、ずっとE先輩のことを考えてしまいました。

荻窪の、風呂なし木造アパートで大学4年間を過ごした先輩は、貧しい暮らしに耐えるだけの根性はあったと思います。でも、高給取りとなり、専業主婦の奥さんと、私立学校に通うお子さんを持った今の先輩は、もう、木造アパートで暮らす気楽な、自由な心優さがとりえの人間には戻れないのでしょう。豊かさに慣れた彼の奥さんと、お子さんが、風呂なしの木造アパートに満足して、暮らしてゆけるとは思えないのです。なんだか、寂しい出来事なぁと思ってしまいました。

日本という国は、物質的な暮らしの豊かさと心の豊かさがとことんかけ離れてしまった国になってしまったんだなぁ。。

今後、銀行は変わるのでしょうか、変われるのでしょうか。先輩が定年退職をする前に、またあのゾウさんの優しい目に戻ることができるのでしょうか。

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2009年8月29日 (土)

人生のちょっとした煩い

著者 Gペイリー 文春文庫

最後の瞬間のすごく大きな変化」を読んで、重病で死にかけている友人に「いままでも、今もずっと最低の人生なんだから、これから生きてたってずっと最低の人生のはずで、だから生きてても死んでもそれほど変わらないからくよくよするな」っていう見も蓋もない慰めの言葉を言う友だちに対して、「たとえそうだとしても、これから何が起こるか、そういうこの先の人生で起こる最悪のできごとも、全部最後まで見ときたいのよ」という答えをさせてしまう、そんなストーリーを書く著者にとても惹かれて、新刊が出たら読みたいと思っていて、漸く出ましたので早速入手しました。

ストーリーはとてもモダンで前衛的なのに、なんと著者は2008年に84歳で亡くなられている故人でした。但し、本書は1959年と60年も前に出版されているのですが、現代でも新鮮さを全く失わない、逆に停滞した現代よりも、文化も芸術も華開いていた時代を生きてきた人が描いたのだろうと思える小説群です。

彼女はロシア生まれのユダヤ系のアメリカ人なのですが、イスラエル建国については、徹底的に反対なようで、そんな記述も本書で見受けられます。ユダヤ文化については無知に等しい異国の人間として、とても興味深いユダヤ人の意識を語る文章が散見されます。

前回の本での、最低の人生でもそれでも私は最後までどんなか見届けたいっていう言葉が、とっても人生の救いのように感じられたのですが、今回も、人はたった一人で孤独に死んでいくけれど、でも最後はそれほど孤独ではない、百万もの骨で込み合っている場所に転げ落ちていくんだからね。。みたいなそれって救いなのか、それとも絶望なのか、かなりブラックなセリフを読者に投げかけています。。

自分も死んで骨になるのだけど、でも何万との骨と押し合いへしあいっていうのは、寂しいのか、寂しくないのか、どうなのか、、微妙ですね。死への絶望から気が晴れるとは思えないような気がしますが、それとも、気の持ちようで死後の未来は明るく感じられるのかもしれません。骨仲間とずっと一緒。。

ともかく、こういうストーリーを書く作家が60年前のアメリカにいたんだなぁと、もっともっといろいろな本を読みたいと思いました。

そういえば、先日、自分があと余命半年という不治の病に罹っているという夢を見ました。そしたらなんと、私は夢の中で、本屋か図書館かわかりませんが、大量の本に囲まれていて、「これも読んでいない、あれも読んでいない、、あと半年では間に合わない、どうしてもっと早くから取り掛からなかったんだろう」って絶望している夢をみて目が覚めました。

そして、潜在意識の中でも、自分のやりたいことって、本をたくさん読むことなんだなぁと、われながら驚きました。

最近は、書籍代もバカにならないので、通勤時間は、本の消費を浮かせるために、睡眠に当てているのですが、こんな焦らせるような夢をみてしまうと、やはり残された時間を大切に、少しでも本を読んで、良本にめぐり合う機会を無駄にすべきではないのでは?と思ってしまいました。

村上春樹の小説はあまり好きではないのですが、翻訳されてない良書を発掘して、そして日本に翻訳して紹介してくれる実績はとてもよいですね。

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2009年8月22日 (土)

君たちはどう生きるか

著書 吉野源三郎 岩波文庫

以前、麻生太郎が渋谷のロフトで「レジ打ちで正社員は珍しい」なんて暴言を吐いてましたが、今度は、森喜朗が、石川2区で対抗馬に立候補した民主党候補の田中氏の経歴に派遣社員があったことから「派遣社員で国会議員の資質が備わるのか」というなんとも酷い発言をしたということです。派遣社員だって、職務形態が期間を定めた契約というだけで、仕事の内容は正社員となんら変わらない場合が殆どだし、会社のシステムを構築したり、重要な決定権を与えられたり、責任のある仕事や管理を任されている場合だっていくらでもあります。そんな現状も知らずに、このような発言。正気とは思えません。

(しかも、有期ということ、国民という派遣元から国会に派遣されているんだから、国会議員だって職務形態は派遣社員と同じですよ。最長でも4年ごとに国民による契約更新があるのですし)

派遣社員を親に持つ子供だっているでしょう、このような政治家の発言を聞いて、深く傷つく幼い子供だっているのではないでしょうか?そのようなことにも思いを馳せることもできないなんて、、とても悲しいです。

このようなサメより脳みそがない政治家を国会に送り出してきた石川県民の責任もあるのですが。

国を根底で支える労働者を愚弄して傷つける麻生太郎、森喜朗、そしてこのような政治家を生み出した福岡県、石川県でこの二人の名前を選挙用紙に書き込むつもりの県民の皆さんには、その前に一度吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読んで、人として恥ずかしくない行動を今度こそ取って欲しいと思います。

もっとも重要な部分の抜粋

考えてみたまえ。世の中の人が生きてゆくために必要なものは、どれ一つとして、人間の労働の産物でないものはないじゃあないか。いや、学芸だの、芸術だのという高尚な仕事だって、そのために必要なものは、やはり、すべてあの人々が額に汗を出して作り出したものだ。あの人々の労働なしには、文明もなければ、世の中の進歩にもありつけないのだ。

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2009年8月21日 (金)

赤い指

著者 東野圭吾 講談社文庫

この作家はあまり好きではないと過去に書いたのですが、友人が面白いからと貸してくれたので読んでみました。

心にナイフをしのばせてで書いた感想にもつながるのですが、オレオレ詐欺で騙される親と一緒で、自分の子供が犯罪を犯した場合に、親が子供と共に十字架を背負う覚悟で、自分の子供に罪の重大さを認識させてキチンと罪を償わせる、責任をとらせる、反省させる、更生させる道を歩ませることができるか。それとも、子供も自分もトラブルや苦労に巻き込まれたくないがために、子供が犯してしまった犯罪そのものをなかったこととしてやり過ごす方法がないかを画策するのか、親の人間性、親の成熟度にもよるのだろうと思いました。

光市の事件や、土浦の事件の犯人の親が、遺族に対して、親として自分の命、人生をかけて償います。今後、なんとしてでも息子にも罪の重大さを理解させ、一生をかけて贖罪する覚悟です、慰謝料を請求されたなら、自分の財産を全て売り払い、いくら借金してでも、要求通りの慰謝料をお支払いしますので、なんとしてでも、息子を死刑にすることだけは赦してください、鬼畜のようなことをしでかしました。それでも自分の子供なのです、良心があると信じたいのです、そんな人間に育ててしまったのは親としての責任もあります。ですから、なんとしてでも生きて、罪の重さを償って欲しいのです。といった、真摯な態度で願った場合、遺族感情は揺れ動くのではないのでしょうか。どうなのでしょうか。それとも、どれだけ犯人の親に謝罪されても、大切な家族の命は戻らない、命には命で返してもらう以外ないとそう考えるのでしょうか。(事件後の親の態度の良し悪しで加害者の量刑が変わってしまうというのは問題ですけれど、実際はそういうことがありそうです。)

但し、本書のような全てを親任せ、親のせいと考えている息子ですと、親がこのような尻拭いをしたら、調子に乗って同じ過ちを繰り返してしまうような気もするのですが、これは親自身が生活のトラブルを避けるために甘やかし、放任してきたこれまでの親子関係とは違う、真剣な愛情に基づいた親子関係を築こうとしていると信じてもらえるかどうかにも寄るのかもしれません。。

責任から逃れる人生を常に送ってきた両親の背中を見て育った息子が、自分の犯した犯罪の責任を逃れるというのも、もっともな話なのかもしれません。子供は大人の真似をして育ちます。そういった意味で、この本書の息子も親と同じような人間になっただけなのに、なぜ逮捕されるのか、どうしても納得できないのでしょう。

できれば面倒な人間関係や、重い責任などから逃れ、精神的にも成長をしようという努力もせずに、気楽で怠惰な人生を送って生きているのに、人並みに親になってしまった大人たちにとっては、とても恐ろしいストーリーかもしれません。

総理大臣が職務を放りだして突然辞任したり、マンガばっかり読んでて録に漢字もよめないなど、無責任さや怠惰さ丸出しな様子を毎日テレビなどで見せつけられている、国民、そして子供たちはどうしたらいいのでしょうか?そしてこんなんでも、総理大臣になれるんだぁ責任ってそんなに重要?と思ってしまうのではないのでしょうか?

自分のすることに責任をもって生きなさいと子供に伝えたときに、「でも、総理大臣だって途中でお仕事放りだしても平気にしてるよ、そして、恥も外聞もなく平気でまた選挙で立候補してるし、二世で何の努力してなくて、ただ親から地盤を受け継いでるだけなのに、そんなこと気にせずに選挙民も平気で再選してあげてるよ」って質問されたらどう答えたらいいのでしょう?

あれ、話がそれてしまいましたw。

わたしは、過去にも、何度も書いていますが、少年犯罪の厳罰化には反対です、子供に悪い子はいないと信じたいのです。悪い子になったとしたらそれは大人(親だけではなく、周囲にいる全ての大人)の責任だと思っています。

本書で、殺人を犯してしまった息子が「親のせい」とつぶやいたのはあながち間違いではないような気がしました。

本書は東野作品にしては珍しく、介護問題など自分が直面した際に、どれだけ責任ある振る舞いができるのか、不安になることがあり、だれにとってもひとごとではない、そういった観点からもいろいろと問題を提起している、良い作品だったと思いました。推理小説というよりは、今回は、介護問題や、少年犯罪といった、社会問題提起のためのわりとまともな小説だったと思います。

(ボケたふりをしていると、本当にボケるらしいので、お嫁さんを困らせたくても、ボケたふりはやめたほうがいいとおもいます。)

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2009年8月12日 (水)

学校を辞めます

著者 湯本雅典 合同出版

私自身、小学校の将来の夢には学校の先生と書いていたこともあり、今でも心のどこかで、学校の先生になりたかったという残念な気持ちを抱いて人生を歩いているので、教育現場には少なからず関心があります。

友人の子供の学校の様子などを耳にすると、自分たちが子供のころとは随分と様子が違うようです。宿題の正誤の確認は教師ではなく親がするなんて驚きです。それでも、学級が崩壊し、うつ病の教師が続出しているというのは、どういうことなのでしょうか?

以前、この記事この記事で、大学時代に家庭教師をした経験を書いたのですが。この、たった一人の子供の家庭教師を3年間続けた経験で、教師という仕事の恐れ多さに怖気づいた私は、教職取得すら断念しました。子供の人生を左右するなんとも大変な仕事なのです。そういった意味では、人の生死を扱う医師と同じくらいの職業と考えてよいと思うのです。

現在の日教組批判についても、もともとの日教組の活動は、政府や国家の思うとおりの教育で、二度と子供たちを軍国少年少女にさせるような不幸な時代に導くことのないようにと、国家や権力の犯す過ちから子供たちを保護し、正しい健全な教育環境でどのような生活環境の子供たちでも、公平にバランスのよい教養や身体能力、社会的モラルなどを培う健全で平和な教育で子供たちの健やかな身心の成長を守りたいという健全な発想からスタートしたと信じたいと思うのです。そのためにこそ、教師の活動を国家権力から切り離した安全地帯にある組織として発足したのではないかと思うのです。

ところが、気がついたら、この組織が子供たちを守るという目的よりも、教師たちの給料やボーナス、快適な職場環境を守るためだけの組織になってしまい、当初の目的や役割を疎かにしてしまったのではないかと思うのです。

これは官僚についてもおなじことが言えるかもしれませんが、高い志を持った官僚や教師のために、あらゆる権力や圧力団体の妨害なく職務に専念してもらうために安全で守られた環境が構築されていた筈が、いつのまにやら、ただ、あらゆる圧力や権力から守られた安全な環境なので就職するとお得だよ、と、不埒な理由でこの職場を選んでしまう不届き者が増殖して、やがて国民が不信感を持つほどにこの職に付く人々が堕落してしまったら、結果的に自分たちの首を絞めることになることを、もうすこし考えて欲しいと思うのです。

さて、本書の著者は、まさに子供たちにひとりのこらず、高い教養や身体能力を培って欲しいという志を持って教師になったひとりです。ですが、職場環境は整っておりません。まともな教育のためには、時間も人材も足りない、会議やら、報告書やら、雑事に追われて、生徒と向き合う時間が全く足りずにいました。

また一人だけ突出した行動をすれば、他の教師から「余計なことをして」と疎まれるのです。赴任したばかりの学校からの配置替えを命じられたリ、やがてうつ病を発病してしまい、学校という教育に挫折して、現在は塾の教師として、別の角度から子供たちの教育に携わっているということです。

私の最も好きだった高校時代のO教諭は、教育熱心で、教え方も上手で、課外の部活動や、ボランティア活動の指導にも積極的で、また、生徒のプライベートな悩みの相談などにも踏み込んでくれる、とても尊敬できる先生だったのですが、生徒の人気と反比例に職員室ではイジメにあっていたという話を卒業後に耳にしました。結局、別の学校に異動させられてしまったといいます。

その反対に、人間的にも未熟で、始業ベルから終業ベルまでの間、教科書をただの棒読みにする、まともに生徒に教える気もなく、気分次第で生徒を叱り、サラリーマン的に時間で仕事をする、学校一番に嫌われていた中学時代のY教諭は現在、校長先生になっていると聞いて、当時の同級生たちと驚いたりするのです。

官僚も日教組も、初心に戻って襟を正す時期にきたのではないかと思われます、塾など通わなくても、どのような生活環境の子供でも、毎日学校で一生懸命勉強すれば、必要な教養や運動能力が習得できる、そんな学校にしたいと、ひとりひとりの教育者や政治家、もちろん国民が望んでくれれば、経済格差もだいぶ解消されるのではないかと、、

あまり、この本の感想にはなっていませんが、本書を読んで、またいつものように、夢想というか、いろいろな妄想をしてしまいました。

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2009年7月24日 (金)

瀕死の助六問屋

著者 忌野清志郎 小学館

どうぞ待っていておくれ。僕を忘れないでくれ。

いつか君のもとに帰るよ。

政治の話をして君を困らせたりしないから、僕を待っていておくれ。

先日友人Eと久しぶりに銀座で美味しい料理を肴に飲んだとき、たまたま、会話のきっかけで、小泉元首相が格好いいと友人が語ったため、突然わたしの小泉ギライが着火してしまい、いかに小泉がひどい奴かを30分近く懇々とと語ってしまったのですが、友人はもともと政治に一切興味がなく、政治家は、知り合いor顔で決めるというタイプだったので、この30分の私の語りは、とっても友人にとっては迷惑だったわけです。

たしかに、顔が格好よいから選ぶもあり、というのが今の日本の選挙なわけなので、、、相手が嫌な気持ちになるのに、自分が認めていない政治家を激しく中傷するのはおとなげないのかもしれないと、後からちょっと反省をしてしまいました。

ごめんね、もう政治の話をして、君を困らせたりしないよ。

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2009年7月22日 (水)

終末のフール

著者 伊坂幸太郎 集英社文庫

「死者の精度」と同様に、丁寧にストーリーを練らずに無理やり出版してしまったような杜撰な内容に思えました。

この作者は、「ラッシュライフ」あたりで、しばらく休筆に入ってもよかったような。。

「オーデュポンの祈り」を読んだときには、日本のジョナサンキャロルか?と期待していたのですが、このままでは、東野圭吾みたく、内容の薄い小説を書き散らす作家になってしまいそうで残念です。

まず、世界が終わることを政府が知ったら、政府は権力を駆使した徹底的な圧力で報道規制、緘口令をひいて、1000%以上の確率で国民には知らせないでしょう。

それこそ、まちがいなく、この小説で描かれている以上に、権力者が搾取するための労働者が世界中から居なくなります。お金の価値だってなくなりますから、スーパーハイパーインフレになるはずで、本書に描かれているように、悠長に自動販売機でジュースが買えるわけもないと思います。

いずれにしても、あと8年で世界が終わるとしたらあなたはどうしますか?というのは、自分の世界だけが終わり、世界は終わらないという設定にしないと到底難しい気がします。

8年しかないのに、地道に水道局やガス会社や電力会社で働いている人ばかりではないでしょう。そして、電力会社や水道局が活動を停止したらどうなるか、、こちらの本を買って読むよりも、アランワイズマンの「人類が消えた日」をお薦めしたいと思います。

ところで、自分の余生があと少しとわかったら、以前みた映画、「最高の人生の見つけ方」の感想にも書いたように、大好きな東京の街角を出来るだけ散歩して、そしてできるだけ本を読んで、できるだけ生のライブに行きたい(と、今やっていることと同じことをしたいなと思っています、実際の話になったら、それどころじゃなくなりそうな気がしますが、だからこそ、本番に向けてのイメージトレーニングは大切かと。。)

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2009年7月21日 (火)

フラナリー・オコナー全短編(上)

著者 フラナリー・オコナー ちくま文庫

本書では、いろいろな衝撃を受けました。

フラナリー・オコナーは、1964年に難病で39歳でなくなったというアメリカ南部文化を冷徹に描く女性作家だということです。初めて手に取った一冊です。

唐突に、まったく救いのない「善人はなかなかいない」という短編からはじまります。やんちゃな子供や、陽気で信心深いが軽薄なおばぁちゃんが、残忍なならず者に容赦なく殺される衝撃。

「田舎の善人」では障害をもっているため、母親に甘やかされて育った娘が、善良そうな若者を誘惑するつもりが、逆に残酷に扱われる衝撃。

顕著な黒人差別の様子が鮮明に描かれており、登場するどの人物もが、人を信用せず、自分のことばかり考えている。カトリックに支配された地域というのは、ここまで暗澹とした残酷な世界なのかと、、衝撃を受けました。

まったくもって、救いのない短編集なのですが、人間というのは放っておくとこうなってしまうのだろうと、なんとなく理解できてしまう、そんな一冊でした。下巻も読みたいと、本屋に行くと、上巻は何気なく購入してしまって気がつかなかっのですが、本書は文庫本なのに本体価格が1400円もしてることにも衝撃を受けました。

なんということでしょうか、このデフレの時代に、書籍のみがハイパーインフレになっていることに愕然としてしまいました。

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2009年7月 8日 (水)

心にナイフをしのばせて

著者 奥野修司 文春文庫

死刑存置派の友人Sから読みなさいといって渡された一冊です。これを読んだら、遺族の気持ちがよくわかって、死刑の必要性がわかるはずというのです。

本書は、息子を同級生の少年に殺された犯罪被害者の家族の長い人生を綴った一冊です。本書がきっかけで、犯罪被害者にスポットライトがあたり、法改正も進み、遺族感情が裁判の内容に影響を与えるようになったとも言います。

少年法に守られた加害者の少年は、少年院を出所した後、遺族への謝罪もなしに、名前を変え、大学を卒業して、弁護士になっていたということです。被害者家族は事件で受けた心の傷から抜け出せずに悲しみを抱えて暮らしをしているのに、赦せない、という内容です。事件から30年近くたってようやく電話で話をした遺族への加害者からの言葉は「金が必要なの?」といった投げやりで、侮辱的な内容だったということも記されていました。

なんの贖罪の気持ちも、反省もなかったのだろうと。これで加害者は更生したといえるのだろうかと。。読者の憤りを煽るような内容になっていました。

ですが、そのような読者心理の誘導は少し危険なのではないかと、クビをかしげてしまいました。

この少年は、おそらく精神面では、更生していないのでしょう。

だって、出所したときに、父親が、名前を変えさせて別の人生を送らせるように取り計らっていのですから。少年の一番近くにいた指導的立場にいる大人がそういう人間として生きるように学ばせていたのですから。この父親が、心を込めて、一生をかけて被害者に償う、そういう生き方をする父親だったら、大分違ったのではないでしょうか。

この加害者の人生には、犯した罪の重大さを認識させて、反省と謝罪をうながす深く愛情を持った大人(とりわけ家族)が存在しなかったと思えるのです。とても不幸なことです。

読んでいて、現在は50歳を過ぎたという、この当時の加害少年が憎らしいと思うよりも、なんと哀れなと思ってしまいました。真の愛情というものを人生のどこかで体験していたなら、被害者の無念や、遺族の悲しみを理解することができたはずなのに、おそらく、この男性は、妻も子供も持ちながらも、生涯、愛情、他者を思いやるという感情を体得することができなかったのではないかと思われるのです。

被害者遺族は、思い出すと悲しすぎて心が不安定になって生きてゆけないから息子、兄のことを考えずに暮らしてきたと語っていまししたが、こんな悲しい加害少年を憎み続けて、なくなられた息子さん、お兄さんのことを考えまいと、忘れようとして残された人生を無為に過ごすよりは、息子さん、お兄さんの生前の姿を胸の中に沢山思い出して、お兄さんの生きていた痕跡を少しでも友人や子孫など、少しでも多くの人に伝えて、お兄さんの生きた証を残してあげて欲しいと思いました。

わたしは、死刑や、厳罰化や少年法の適用の低年齢化に疑問を持っています。

それは、自分や自分の家族や親しい人(とくに子供や少年)がまかり間違って、加害者になる可能性や、または冤罪被害者になってしまう可能性を捨てきれないからという理由もあります。特に交通事故などの不慮の事故や突発てきな精神疾患(心神耗弱)はどこの誰にでも起こりうることです。

また、全ての人間は、自分の利益や身の安全のために、ひょっとして人を殺してしまうかもしれない動物なのだということを知っておいたほうがよいと思います。

イラク戦争は、大儀名分は、大量破壊兵器の存在でした。イラク戦争に参戦した国々は、自国に対する利益や安全のため参戦したのです。実際、その不利益や危険は誤解(妄想と言ってもよいのでは?)でしたが、イラクで失われた命は謝罪されても戻ってきません。(ブッシュは謝罪しましたが、小泉はまだ謝罪すらしていません)。

特に、死刑存置派の人たちは、理由さえ整えば、人は殺されても良い(死刑になればいい)と考えているわけです。

理由さえあれば人は殺されてもいいのだと、こころの中で考えているわけですから、特に加害者になる可能性は高いです。相手が侮辱したら殺してもいい、相手が自分を不公平に扱ったら殺してもいい、相手が自分の主張に従わないから殺してもよい、相手が自分に不利益を与えたから殺してもよい。相手が自分を悲しませたから殺してもよい、こういう発想をする人は死刑を容認し、戦争を起こし、殺人を犯す可能性の高い人たちなのだと思います。

楡の木の嘘でソンミ村のおばあさんは、小さな子供から老人まで、強姦し、射殺し、焼き殺した、あのときの米兵は人間ではなかったと語っていました。一時的に人間の心を失っていた米兵は、顔のない悪魔だったと。。そして、残虐の限りを尽くした米兵たちは戦争が終わって、国に帰り、人間の顔を取り戻したのでしょう。そして、ソンミ村で家族を虐殺されたおばあさんは、米兵を赦すことにしたのです。人は誰かを憎んでは生きていけないからだと。

この本の出版により、加害者の男性は弁護士登録を抹消したようです。道義的には謝罪もせずに、悠悠と生きてきた加害者は赦せないと思うのがまともな人間の感情かと思いますが、法的には罪を償った加害者は、どこからも、非難を浴びたり、生活を乱されたりする筋合いはないのではないでしょうか。

冤罪で何十年も刑務所に入れられていたり、死刑になってしまった冤罪被害者に対して道義的責任など感じず、イラクに自衛隊を送ったけど、イラクで殺された罪も無い犠牲者に対して道義的責任すら感じず、遠い国の貧困の原因や紛争で命を落とす子供たちと引きかえに、自分たちの豊かな生活に成り立っているかもしれない、そんな道義的責任から目を逸らして自分の生活で精いっぱいの日々を送っている(ときにはお笑い番組で馬鹿笑いなどしている)自分を含めた多くの日本国民は、すでに加害者(人殺し)になっているかもしれないのです。

よっぽど自分が清廉潔白で、まったく穢れも無い人間かどうかよく考えてみたとしたら、この加害者の男性に偉そうなことはいえないと思うのです。。

この作品の作者は、別の意味で、この加害少年のまともな生活を破壊した、加害者になってしまったのではないでしょうか?

犯罪被害が理由だけではなく、事故でも、病気でも、自殺でも、大切な人の喪失は、残された家族や親しい人にとってのその後の人生に必ず暗い影を残します。もしも殺人の犯罪被害者の家族が、息子さんを自殺で亡くされた家族の方に「あなたは自殺だからましよ、わたしの息子は人に殺されたのよ」と言われたからといって、息子さんを自殺で失った家族の心は癒されるでしょうか。

遺族は、とくに、子供を失った親は、どのような理由が原因であったとしても、悲しみの深さに違いはないと思うのです。

本書を読んでも感じたのですが、被害者家族を、マスコミが追いかけたり、周囲の人間から、興味本位の目で見れたり、加害者が家族に与える被害よりも、二次被害こそがよほど問題なのではないでしょうか。

この二次被害を防ぐ、そういった法律こそ死刑や、厳罰化の論争よりも先に行うことが重要なのではないかと思いました。

厳罰だ、死刑だと大はしゃぎしていたら、自分や家族や友人が死刑台に立っていた、そんなことにならないように、もっと真剣に死刑や厳罰化について考えてみる必要があるのではないかと思いました。

なんだか、支離滅裂気味になってしまいましたが、本書を読んで、友人Sの意図とは逆に、ますます死刑廃止論を支持する気持ちが高まってきたように思えます。

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2009年6月30日 (火)

もうひとりの私から、イラクへと向う部下へ

著者 浅田次郎 平凡社(それでも私は戦争に反対します:日本ペンクラブ編に収録)

本書は、自衛隊のイラク派遣が決まったときに日本ペンクラブの作家が共同で執筆発表した文章を集めた一冊です。

ああ、じきに夜も空けるな。風も雪もおさまってきた。さ、定位置に戻って立哨せい。お前も寒さにはなれているだろうが、イラクの夏はひどく暑いらしい。何でも暑さの世界記録は、バスラで観測されたそうだ。信じられるか、摂氏五八・八度だとよ。

あのな。ロートル小隊長の最後の命令を聞いてくれるか。

おまえ、撃たれても撃ち返すな。橋や学校をこしらえていて、もしゲリラが攻撃してきたら、銃を執らずに、ハンマーを握ったまま死んでくれ。

正当防衛も緊急避難もくそくらえだ。他人を殺すくらいなら、自分が死んでこその人間じゃないか。

自衛隊は世界一猥褻な、世界一ぶざまで滑稽な軍隊だけど、そんな俺たちは誰も気付かぬ矜りがある。それは、五十何年間も戦をせず、一人の戦死者も出さず、ひとつの戦果さえ挙げなかったという、輝かしい不戦の軍隊の誇りだ。

GHQと戦後日本政府がこしらえたおもちゃの兵隊が、実は人類の叡智の結晶ともいえる理想の軍人であることを、ブッシュにも、無能な政治家どもにもわからせてやれ。

いいか。俺は昔の戦で死んだ大勢の先輩たちと、ほんとうの日本国になりかわっておまえに命ずる。

やつらの望んだ半長靴を、人間の血で汚すな。われらが日章旗を、人間の血で穢すな。誰がなんと言おうと、俺たちは人類史上例をみない、栄光の戦わざる軍人である。

復唱せよ。

現在、北朝鮮のミサイル問題で自衛隊が右往左往しているときに、浅田氏のこの文章は深く考えさせられました。

友人の旦那さんは自衛隊の隊員です。温和で真面目な旦那さんです。ときどき思います。もしも戦争がはじまったら、たとえ相手から攻撃をされて、正当防衛という理由があったとしても、このやさしそうなご主人が、何故戦がおこったのか理由もよくわかっていない小さな子供たちが暮らすまちの橋や建物を空爆したりするのだろうか。自分とまったく同様に、守るべき家族や親兄弟を持つ敵対国の軍人の胸に銃弾を打ち込むことが出来るのだろうかと。

自衛隊員の人たちは、わたしたち国民の代わりにとはいえ、なんと大変な役割を担ってしまったのだろうと思ってしまうのです。

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2009年6月29日 (月)

ルパンの消息

著者 横山秀夫 光文社文庫

いつもの横山作品に比べると、登場人物や舞台が子供や学校だったりするため、骨太で芯がしっかりしているといういつもの印象とは大分違ったのですが、謎は最後まで解けませんでした。

でも、こういう落としどころもいつもの横山作品とはちょっと思想がちがうような。。新しい試みなのかもしれませんが、余り好きではありませんでした。

もちろん、面白く最後まで一気に読んでしまいはしましたが。

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2009年6月15日 (月)

そして死刑は執行された

著者 合田士郎 恒友出版

先日、茨城の土浦連続殺傷事件で、容疑者の父親が、息子が死刑になっても仕方がないと証言したというニュースに、暗澹とした切ない気持ちになってしまいました。

親子の幻想が完全に崩壊したのかなぁと。。。世界中の全員が鬼畜だ、悪魔だと自分の息子にレッテルを貼ったとしても、全身全霊で両親だけは息子の味方になり、自分が身代わりになってもいいから、なんとしてでも死刑を回避させて、命を救ってやりたい、そう願うのが親の心なのではないかと思っていたのですが、違ったようです。

なんだかとても寂しいことだと、思ってしまいました。

この容疑者は、実の親にも見捨てられてしまったのだ、、これでは反省や改悛などできる筈もないと。。これまでの人生で、この容疑者は、心を赦せる大人と一度も出会うことが出来なかったのかなぁ。。と思うと残念でなりません。これから先、ひょっとしたらそんな大人に出会える可能性は残されています。そのとき、はじめてこの容疑者も改悛の情を抱き、自分の犯してしまった罪の重大さ、恐ろしさに後悔の念を抱く日がくるかもしれません。その日が訪れていない人に対する死刑という刑罰は、まったくもって無意味だということを、本書では語っていると思います。

とはいえ、本書の著者は仮名であり、出版後に刑務所等からクレームもあったということであり、内容の信憑性も疑問が残るのですが。

本書で登場する著者は、人をひとり殺めて、無期懲役になっているのに、読めば読むほど、改悛の情を感じることができないのです。被害者の遺族は、この著者に赦しの手紙を送っていたようですが、本書を読むと、加害者の改悛は口先だけのようにも思えてしまうのです、しかし、この著者の人生経験に照らし合わせると、この改悛の情のレベルでも十分なのかもしれません。

他者への愛情、思い遣り、いたわり、不正や暴力に対する嫌悪、道徳心、恥の感情などは、生まれてきたときから身につけている能力ではなく、手本となる大人(それは大抵は親や家族ですが、さらに、隣人や教師、またテレビに登場する大人も影響力は甚大だと思います)の存在がなければ身に着かない能力だと思うのです。

わたしがこのブログでも何度も書いてきているように、安直な死刑や、少年法の低年齢化に疑問を覚えているのも、半端な教育制度と、半端な福祉制度をタナにあげて、無知や貧困からくる暴力や犯罪を厳罰という権力による暴力で押さえつけることが、本当に文明国家といえるのかということなのです。遺族の悲しみを癒すのは加害者への厳罰ではなく、社会全体でのケアが必要なのだと思うのです。

そして、本書では、冤罪の問題も語られています。知的障害者や、第三国人への差別による暴力的な冤罪によって、すでに無辜の人の命が、死刑によって失われている驚愕の事実も語られています。

つい先日、足利事件の冤罪について、麻生首相は、取調べの可視化について、「可視化によって冤罪が減るとは感じていません」という理由もないコメントをしていることを耳にして、いつか自分が冤罪の被害者になって強引な自白をさせられて死刑にでもされない限り、この人には、無辜の国民が冤罪という苦しみに何度も陥れられたということに思いを馳せることは出来ない想像力のかけらも持たないひとなのだなと、がっかりしました。(なんどがっかりしたことでしょう)。

ノンフィクションということですが、作者が仮名でもあり、100%の真実が語られているかはなんとも言えませんが、死刑ということをもう一度考え直す上で、一読の価値のある一冊だと思いました。

たまたま、友人Sが死刑制度に関心をもっていて(彼は死刑賛成論者ですが)、何度も死刑については、議論する機会があり、お互いに多くの死刑関連書籍を読み、知識を増やしながら論争を重ねています。

それでも、死刑について、納得の行く答えはまだ出ていません。

そんな中、裁判員制度は見切り発車となってしまいました、空恐ろしくも感じています。

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2009年6月10日 (水)

悪女について

くや著者 有吉佐和子 新潮文庫

本書を読んでいて、冒頭から東野圭吾の「白夜行」にそっくりで・・読み進むにつれて、んっ?と思ってしまいました。

本書は昭和53年初版ですから、「白夜行」がこの本をまったく意識せずに執筆されたとは考えらないほど、発想が似ています。(とはいえ、「白夜行」「幻夜」の陰湿さは、本書に似てもにつかないのですけれど。)。

有吉佐和子の関係者からは抗議などはなかったのでしょうか?

とにかく、東野圭吾作品を読むたびに、暗澹とした気持ちになり、残念な気持ちで満たされるので、救いのない猟奇小説がなぜ人々に受け入れらるのか、とても疑問です。

あまりにも東野作品がベストセラーになるので、今度こそよい作品なのだろうと時々読んでみるのですが、、今のところがっかりな結果ばかりなのです。

東野圭吾ファンの人は、一度本書と読み比べてみていただきたいと思いました。

「白夜行」の冒頭にでも、有吉佐和子の「悪女について」のオマージュ、、などと一筆あったら問題ないのかもしれませんが。。。

それとも、二人の作家がモチーフとしたまったく同じさらに別の過去の作品の存在があるのかもしれませんが・・

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2009年6月 9日 (火)

わが目の悪魔

著者 ルースレンデル 角川文庫

中央大学教授殺傷事件の容疑者の動機を聞いて、ルースレンデルの「わが目の悪魔」を思い出してしまいました。この作品は、アンソニーパーキンスが主演で映画の方もすばらしかったのですが、原作も人間の絶望と狂気へと至る道をよく描いた作品だとおもいます。

自分のアパートに引っ越してきた感じのいい自分と同じ名前の青年が自分をバカにしている、という妄想に駆り立てられて精神を病んでいき、やがて殺人事件へと発展してしまうストーリーです。

中央大学教授殺傷事件の容疑者の動機は、忘年会で無視されたことがきっかけといったことが記事になっていました。

この内容について、ヤフーなどのコメントを読むと、短絡的に、「自分勝手なジコチューは死刑だ、死刑だ」と騒ぐ人ばかりなのですが、いつ自分が同じような被害妄想を抱いた精神状態になって、加害者と同じ行為を犯してしまう日がくるともかぎらないのですから、想像力のない人は困ります。

結局、そこんところをまったくわかっていない、人たちが実は今回の事件のような悲惨な事件に加担しているような気がしてなりません。甘えるなという意見も多いのですが、甘えてなにが悪いのですかといいたい、人に甘えることで、自分の存在意義を確認できて、自信を持って生きて行くのと、誰にも甘えられず、気にかけられず、無力感と、存在意義の欠如で妄想を抱き、殺人者になってしまうのとどっちがいいのでしょうか?(極端な話ですが)。

この容疑者の周りに、彼の精神の崩壊に気がつく友人や家族が誰一人としていなかった、そのことが悲しく、哀れでなりません。

もうすこし、周りの人に優しくして、思いやりをもってみてもいいのではないでしょうか、少なくても、友達や知人については、少しばかり甘い態度をしてもよいのではないでしょうか、そこから安らぎが生まれるのではないかと思います。

犯罪が凶悪化したら厳罰化すればいいってものではない、なぜ凶悪犯罪が起こるのか、また、ひとつひとつの犯罪の動機も、経緯も真相もすべて同じものではないはず、起こった結果だけ見て、加害者は即死刑なんて発想は、結局いずれ自分や自分の家族の首をしめかねないということを、考えて欲しいと思いました。

ちょうど最近、漫画の「20世紀少年」を読んだのですが、この主人公だって、子供の時に無視されたことが原因で、何十万人もの人類を殺すまでの殺人鬼になってしまうのですから、他人への思いやりのなさや無関心のつけがどれほど手痛く自分に跳ね返ってくるか、良く考えてみる必要があるとおもいました。

他者への責任、他者配慮、いまの世の中から欠けているものはこのことでしょう。友愛、いいんじゃないでしょうか。これからの時代は自己責任ではなく、他者責任の時代になって欲しいものです。

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生命の木の下で

著者 多田富雄 新潮文庫

東大で免疫学を研究していた教授のリア充なエッセイです。脳梗塞で体が不自由になってから書かれた一冊ということに驚きました。

とにかく、本書の随所が生命の歓びに溢れているのです。

自分が歳をとって、頭も体も経済力も思うようにならなくなった時に、それでも生命感溢れる生活ができるかどうか、、でも、結局本人の生命に対する敬意というか、大切というか、感謝というか、それをどれほど持っているかで人の人生の充実度は全く違ってくるのだなと思いました。

36歳の若さで亡くなった友人のM兄も、生まれたときから全身に麻痺があり、言語にも障害があり、多くの困難を乗り越えながら、なくなる直前までたくさんの友人に囲まれてすこぶる充実した日々を送っていました。彼も生命感に溢れて人生を生きていたなぁと本書をよんでまた思い出してしまいました。

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2009年6月 3日 (水)

診察室にきた赤ずきん

著者大平健 新潮文庫

患者さんの症状を強引に昔ばなしやおとぎ話で説明しようとした一冊。

こんな大枠にあてはめてしまうのは、夢占いと同じような気がするのですが、それで患者さんの気がはれて、病気が治るというのなら、こんなめでたいことはありません。

ですが、心を病んでいる患者さんは暗示にかかりやすいです。

回復したのではなく、べつの暗示をかけただけなら、深層の部分での回復は遠いのではないかとも思ってしまいました。

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2009年6月 1日 (月)

怯えの時代 

著者 内山節 新潮選書

文体が学術書的なので、かなり読みづらかったです。同じような内容が難しい言葉で繰り返し述べられているので、何を言っているのかがよくわからず、読んでいて、何度も気を失いそう(眠りの精に呼ばれて)になりました。

本書では、現在の非正規雇用や凶悪事件などを例にあげながら、、人々が、自由であることに怯えている日本人の現状を指摘しています。

責任のない、自由な状態は、逆に足場のない不安定な情況なのです。

国家に所属して、所属することのメリットを享受したければ、納税や順法の義務という不自由を強いられるわけです。

資本主義の世界では、労働という不自由に甘んじなければ、衣食住を享受できないのです。

無職で無法者は自由を享受する存在なわけですが、生存は不安定です。この数年で、この生存が不安定な自由なひとびとが急激に増えてしまいました。わたしは「自己責任」という一言で、国民を熱狂させ、やがて多くの国民を不幸に陥れたある一人の政治家の影響が大きいと考えています。

守る人もなく、誰からも必要とされず、責任のある仕事にも就けず、将来の展望も持てず、やがて生きる希望や価値を見失ってしまった男は絶望という自由を手に入れてしまいました。(本書では秋葉原事件を指しています)。

なんでこんなことになってしまったのか、作者は、折りしも流行のことば友愛などという言葉を使いながら、連帯の時代の必要を説明しています。

文体が難しくて、一度読んだだけで、うまく理解していないかもしれませんが、こう解釈しました。

困った人が周りにいたら、自分の力で出来る範囲で、なんとか助けたい、そう願う人々がすこしでも増えていけば、人は自由という孤独に怯えずに、連帯、責任という不自由な場所に身をおいたとしても、安心して生活することができるのではないでしょうか。

この責任とは、他者にたいする責任であり、「自己責任」とは全く正反対の発想だと思いますです。

安心の時代は来るのでしょうか。

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2009年5月27日 (水)

エンドレスワールド

著者佐伯紅緒 世界文化社

大手IT企業につとめる派遣社員3人が、会社の不正を暴くという、恋愛あり、サスペンスあり、そして人生の教訓めいたものも散りばめられた小説。

休日に会社に忍び込んで、メール読むために、引き出しこわして、パスワードの書いたメモを探して、それでメールにログインって。。大手IT企業でそんなセキュリティないよ・・と(今勤めている会社でも、メールにたどり着くまでに、4種類の異なるパスワードが必要だし・・)。しかも、防犯カメラに映りこんでて、あっという間に犯行がばれるっていうか、その犯行の前に防犯カメラに気がつくと思うのですが。。w

このセキュリティ重視時代に読むとちょっと現実味が足りないのですが、セキュリティがまだまだ甘かった数年前の時代だったらありえるかなぁなんて思いました。パスワードをパソコンのモニターに貼り付けてるおじさんがいた時代もあったなぁ

本書にバグベアー(Bugbear)という言葉が登場します。英語の辞書だと根拠がないかもしれない)恐怖の原因, こわいもの, 悩みの種, いらだちのもと、となっています。

心に飼っている、悲しみの元というか、悩みの元のようなものでしょうか。

自分が傷つけた恋人が今でも傷ついているのじゃないかと(根拠はないけど)何年も気になっていたり、、、自分のことを振った恋人はどういう理由で自分を振ったのかわからないから、こうしていれば別れずにすんだんじゃないかとか、こちらも根拠はなしに、原因を考えて、ずーっとあーでもない、こうでもないと悩んでいることってあると思います。

本書では、昔の恋人を探し出したり、呼び出したりして、根拠のない自分の悩みの正解を問うて、バグベアーを整理するのですが、現実にバグベアー退治はなかなか難しいと思います。

何十年も前に自分を振った男性を呼び出して、あの時何を考えていたの、どうして振ったの?とか、自分が振った男性に、ひょっとしていまでも傷ついてないでしょうね?あのときあなたを振った理由はこういうわけで・・なんて尋ねていったら、気が狂った女がやってきたと思われかねません。。(「予告された殺人者の記録」というガルシアマルケスの小説がありましたが、あれは60年近く前に傷つけた女性(元妻)を待ち続けて最後にハッピーエンドになる話でししたが。。これこそまさにおとぎ話でしょう)

だから、人は、心にバグベアーを飼い慣らして、生活をしていかなければならないのだと本書をよんで納得しました。

本書を知るきっかけになったのは、森達也の「職業欄はエスパー」に登場する清田くんのことをネットで調べていたら、この作家のブログに行き当たったことがきっかけです(清田くんとお友だちらしいです)。

そういえば、本書も、精神世界というのか、スピリチュアルな感じも受けました。

話の展開が多少ご都合主義ではありましたが、ドラマ化されてもよさそうな、面白い小説でした。

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2009年5月25日 (月)

伊豆の踊子

著者 川端康成 新潮文庫

伊豆の踊子っていうと、百恵ちゃんと三浦友和の映画で、温泉での裸のシーンっていうそんなイメージで、、いままでまともに読んだことがありませんでした。。

今回、ちゃんとに読んでみると、良い小説ではありませんか。

本書の主人公、一高の学生さんは、アンタイラーの「パッチワークプラネット」に登場するバーナビーのようでした。

この学生は自分は、性質が歪んでいると感じて、その憂鬱に耐えかねて伊豆を旅します。

そして、ひとからはバカにされたり、蔑まされる踊子一座とひょんなことから伊豆の旅を同行することになるのです。

学生は、最初は踊子の姿に色情を感じて、そして後を追ったのに、実はその踊子は、お化粧していたのでもっと年上だとおもっていたが、まだ純粋無垢な14歳の子供だったことを知り(これが温泉場で百恵ちゃんが裸で手を振るシーンだったのです)、自分の滑稽さに笑いがとまらず、そして頭がぬぐわれたかのように澄んでくるのです。。

その踊子の純真な清らかさに心打たれ、自分の心のなかも徐々に清らかになっていったのでしょう。

下田で、その踊子一座と別れるときに踊り子たちが学生のことを「いい人ね」「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」とほめる単純な言葉を聴いたときに、学生は、自分自身をいい人だと素直に感じることができたのです。

そして、踊子たちと別れた帰りの船の上で、学生は人目も憚らず、ハラハラと涙をながすのです。

世間尋常の意味で自分がいい人に見えることがありがたかったというのです。

「パッチワークプラネット」のバーナビーは、自分が少しでも信用されていないと感じると、心がいじけてしまい、わざと信用されないような行動をしてしまうのだ。あなたがそう思っているなら、自分はそういう人間になってやろうじゃないか。。と。

そして、思いもかけない人たちが、自分のことを信用してくれていたことに心を打たれたりします。

人から信用されるということはとても有難いことです。

わたしは、最も信用して欲しい友人に、数年前から、何を言っても信用してもらえない状態が続いています。何度も会話を試みましたが、梨のつぶてです。何年もの間、憂鬱な心で旅しているようなものででした。

でも、だからこそ、自分を信頼して自分をいい人だと言ってくれる友人たちには、本当に心を打たれ、そして都度こころの平安を得ることができるのです。

そもそも信用してくれない人の信用をいつまでも求めつづけるのではなく、無条件で信用して続けてくれる人たちを大切にしよう。悲しいことですが、そんなことを感じた、一冊でした。

誰かに、「いい人だね」って言われたら、心が素直になって、そして嬉しいのです。

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2009年5月 1日 (金)

楡の木の嘘

著者 吉岡忍 平凡社(それでも私は戦争に反対します:日本ペンクラブ編に収録)

1968年3月16日早朝、二十二機の米軍ヘリコプターでやってきた二個中隊、二百数十人の米兵がこの村を急襲した。自由と民主主義をおびやかす共産ゲリラ勢力を掃討する、という軍事作戦だった。

海沿いの集落を襲った一隊は手当たり次第に家々に飛び込み、M-16ライフル銃やM-60マシンガンをぶっ放した。いたるところで血が吹き上がり、骨や肉片が飛び散った。朝食のご飯を口にふくんだままの子供の頭が転がった。妊婦は腹をさかれた。腹から蹴りだされた胎児が空を切り、木の枝にひっかかった。

家から逃げ出した少女や女たちは捕らえられ、その場で強姦されたあと、裸のまま燃えさかる家に放り込まれ、焼き殺された・・・

ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件を回想しながら、子ブッシュのイラク国民への米兵の無差別な暴力を想起させる内容です。

イラク国民へ無差別な暴力が行われた事実は、元アメリカ兵の描いた「イラク、米軍脱走兵、真実の告発」に詳しいです。

生き残りのベトナム人の老婆はソンミ村の虐殺を回想してこのように語ります。

「あの人たちは壊れていました」

「・・・あの兵隊たち。アメリカ人でも兵士でもなかったし、人間でもなかった。どんな動物だってあんなことはしない。あとになってくり返し、くり返し、彼らのことを考えました。だけど顔を思い出せない。思い出せないんじゃなくて、そこだけまっ白。青白く、何もない。あれはこわれた機械だった、壊れて、狂ったまま動く機械でした」

人の人間性を壊して狂った動物にしてしまう戦争。。その米兵の中にひとりだけ、虐殺に加わらなかった男がいたといいます。

カーターとかいう男だ。カーターは海沿いの集落に展開した小隊に属していたが、同僚が無差別虐殺を始めるのを見て、自分の銃で自分の左足を打ち抜いた。おれはこの作戦には加わらない、と決めたのだ。自分が狂った機械になる前に、自分で自分を壊した男が、あのとき一人だけいた。

この生き残りの老婆は、のちにアメリカを赦したと話はじめます。

あるとき気がついた。人間は憎しみを抱えて生きていくことはできません。憎悪は人間を岩や石にしてしまう。そうやって生きていくことは私自身が命を涸らすことになる。私はあの人たちを赦しました。あの人たちのためにも、私のためにも、です。一人で、この心のなかで「あなたたちを赦しますよ」と言ったんです。あの兵隊たちはアメリカ人でも人間でもなく、壊れた機械、壊れたこともしらずに狂ったようにしか動きまわれない機械だった。そう自分に言い聞かせることで私は憎しみを捨て、別の人生を見つけることができました」

おそらく、ナガサキ・ヒロシマの原爆投下で家族を失い、大切な人を失い、自分の身も心も傷つけられた被爆者のひとびとも、アメリカへの復讐ではなく、赦しの心で戦後、平和を願い、日本の再建に尽くしてきたのだとおもいます。

9.11テロで復讐心に燃え、まったく無関係の小さな子供や市民を虐殺し、生活を奪ってしまったのに、ひとかけらの心の痛みもなくのうのうと暮らし、笑っているブッシュや小泉元首相とどれだけ違う考えなのでしょうか。

このような論議になると、必ず、もしも自分の家族が敵性国の兵士に虐殺されたらどうするのだ、と尋ねる人がいます。敵性国の兵士は、心が壊れ、狂ってしまい、戦争の理由もわからない小さな子供を皆殺しにしたからといって、自国の兵士が、同じように敵性国の小さな子供を皆殺しにしてもいいはずがありません。

一度戦争が起こってしまったら、どれだけ良識のある、心の優しい兵士でも、罪のない子供を撃ち殺してしまったり、狂って見境なくなってしまった同僚が強姦や暴力を行うことを阻止すことが出来なくなってしまう可能性があるのです。恐怖心とはそういうものです。

浅田次郎の「もうひとりの私から、イラクへと向う部下へ」にありましたが、日本の自衛隊員たちはこの60年間、一度たりとも壊れた機械にならずに、誇り高い人間として生きてくることができたのです。

これからも、日本国民が、壊れた機械になって欲しくないと願うことは間違っていることなのでしょうか。憲法改正やら、核保有などがまことしやかにささやかれていますが。壊れた機械になるくらいだったら、相手を赦しながら人間として生きて行く道を選ぶべきなのではないのでしょうか。

憎しみという感情は、とても不毛です。世界中の人が、自分のすぐ隣にいる人たちを愛するようになるだけでも、世界はとっても優しい世界になれるのに。

誰もが自分のことしか考えない、誰かを踏みつけ、略奪し、誰も信用できない、そんな殺伐とした世の中に生きるより、思いやりを分かち合い、心を配る、そんな日々を生きる人たちが増えれば、この世の中は、ずっと住み心地がよくなると思えるのです。

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2009年4月27日 (月)

キャプテン・アメリカはなぜ死んだか

著者 町山智浩 太田出版

本書は、アメリカ的な生活、風俗、TV番組や映画などを題材にアメリカを知る面白い作品です。でも、著者の出版物のネタはかぶっている。前に読んだ内容が多い。興味深かったのは、アメリカではクレヨンしんちゃんはR指定で子供は見ることができない、大人向けのアニメだということ。

しかし、アメリカという国は合衆国というだけあって、不思議な国です。国全体が清濁合わせ飲んでいるんですよね。アメリカ人という民族がいないというのが多きいいのでしょう。(ネイティブアメリカンという民族はいるのだろうけれど)。

アメリカ人というのは、つまりはアメリカ合衆国に住む国民というだけですので。

民主党の鳩山さんが、日本は日本人(日本民族?)だけのための国じゃないという発言をして物議を醸しましたが、彼は日本をアメリカ合衆国のようにしたいのかなとも思いました。

たしかに、日本列島の住人の大多数がたまたま日本民族なわけで、少数民族のことも配慮する必要はあると思います。

だって、日本列島に住むのは日本民族だけです、なんて誰も決めたわけではないし、憲法にも書いていないでしょう。

パレスチナ問題も、スリランカの内戦も、ルワンダの大虐殺も、コソボの内戦も、グルジアの内戦も世界各地でおこるゲリラ、テロ活動は、自分と違う主義主張、宗教、生活習慣などを持つ人を強引に排斥しようとしたことからおこっている悲劇です。

大企業にたまたま運良く所属して、その名刺のおかげでペコペコされているだけなのに、まるで自分が偉くなった気でいる小者の商社マンと、日本国籍を持っているだけで偉くなった気で、不法滞在者の子供に国外退去を強要するデモをしたりする小者の日本人は似ています。

少なくとも、大企業に就職するには、少なからずの努力があったかもしれませんが、日本国籍を持っている日本人はなんの努力も不要です。たまたま日本に生まれただけなのです。そんなことで鼻を高くしてどうするのでしょうか。それこそ、日本人として卑怯な恥さらしをしているです。そんな輩に愛国心などないと言ってもよいでしょう。自分の所属する社会よりも相手がマイノリティの立場だったら、謙虚に尊重する、そんな心が必要なのではないでしょうか。

本書の感想が関係ないところに発展してしまいました。

アメリカの番組で、マイノリティの生活を30日間経験させるという番組があるといいます。経験なキリスト教徒でイスラム差別者の男が、イスラム教徒がもっとも多い地域で暮らすことになります。この地域では、そのキリスト教徒の男がマイノリティなのです。そして、イスラム教徒たちと暮らしてみると、彼らがどれだけ礼儀正しく親切で、信心深いイスラム教徒なのかということを知り、25日後には、イスラム教徒差別に反対する運動をするようになった。といった内容のテレビらしいです。著書はこういいます「外国人を追い出せ」とか騒いでいるやつらに、30日間中国人や韓国人の名前で生活させる番組を作ればよいのに」と。

想像力のある人間は、弱い立場の人と同じ立場にならなくたって、自分がどんな気持ちになるかがよくわかるものですけれど、想像力のない人間は、経験しなければ、差別されることがどのような気持ちなのかが、わからないから。

障害者を心無く差別して傷つける人には、いちど手足をなくして生活してもらうしかないということ。

外国人を無責任に差別する人は、日本人がひとりもいない環境で、いちどマイノリティとして暮らしてみればよいのです。

と、やはり本書と関係ない感想になってしまいました。

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君たちはどう生きるか

あえ著者 吉野源三郎 岩波文庫

中学1年生のコペルくんと、叔父さんとの会話によって、世界のしくみや歴史について考える話です。

1937年に出版されたという本書ですが、今の日本の状況が37年当時と似ているのかもしれません。なんとも示唆に飛んだ内容が満載です。

まずは、麻生首相に読んでいただきたい。難しい漢字にはルビが振ってあるから読めると思います。「銀座」、「昼間」、「叔父さん」などという漢字にもちゃんとルビが振ってあるので安心です。

人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。どんなに立派な着物を着、豪勢な邸にすんで見たところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、人間としての値打ちがそのためにあがりはしないし、高潔な心をもち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。

しかし、自分自身に向っては、常々それだけの心をもっていなければならないにしろ、だからといって、貧しい境遇にいる人々の、傷つきやすい心をかえりみないでもいいとはいえない。

若い衆たちは、自分の労力のほかに、なに一つ生計をたててゆくもとでをもっていない。一日中からだを働かせて。それで命をつないでいるのだ。こういう人々が万一、不二の病気にかかったり、再び働けないほどの大怪我をしたら、いったいどうなることだろう。労力一つをたよりに生きている人たちにとっては、働けなくなるということは、餓死にせまられることではないか。それだのに、残念な話だが今の世の中では、からだをこわしたら一番こまる人たちが、一番からだをこわしやすい境遇に生きているんだ。粗悪な食物、不衛生な住居、それに毎日の仕事だって翌日まで疲れを残さないようになどと、ぜいたくなことは言っていられない。毎日、毎日、追われるように生きていくんだ。

このあたりなどは、湯浅誠氏が「反貧困」などで語るためのない人たちの話と一致しているではありませんか。1937年と、2009年の日本の情況が似ているとしたら、あと数年で戦争の泥沼がはじまってもおかしくはありません。

考えてみたまえ。世の中の人が生きてゆくために必要なものは、どれ一つとして、人間の労働の産物でないものはないじゃあないか。いや、学芸だの、芸術だのという高尚な仕事だって、そのために必要なものは、やはり、すべてあの人々が額に汗を出して作り出したものだ。あの人々の労働なしには、文明もなければ、世の中の進歩にもありつけないのだ。

高級ホテルで首相にとってははした金で飲むブランデーためには、葡萄農園の農民の何ヶ月にもわたる労力、蒸留所の作業員の何十年にもわたる労力、瓶詰めをする人の労力、荷物を運ぶ人の労力、輸入して販売する人の労力、仕入れて、サービスする人の労力、ブランデーのボトルやブランデーグラスにいたっては、ガラスの原料の採掘も必要です。高級クラブのブランデーグラスはガラス工房で作られた手作りのグラスかもしれません。また、ホテルのバーを清掃する人の労力も必要です。つまり、首相が、なんの気なしに高級バーでブランデーを飲むためには、世界中の無数の名もなき人々の労力が必要なのです。

おそらく首相が片手で短い時間で飲み干す液体のために、100人近くの人の労働に支えられているのです。そんなことに思いを馳せてくれたなら、税金というのはどういうお金なのかということにも思いが至るとおもいます。汗水たらして働いたことのない人間でなければ、定額給付金のようなつまらない政策を考え付いたりしないように思うのです。

君は、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後決して見落とさないようにしてゆきたまえ。この点から見てゆくと、大きな顔をして自動車にそりかえり、すばらしい邸に住んでいる人々の中に、案外にも、まるで値打ちのない人間の多いことがわかるに違いない。また、普通世間から見下されている人々に、どうして、頭をさげなければならない人の多いことにも、気がついて来るに違いない。

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2009年4月20日 (月)

慶次郎縁側日記

著者北原 亞以子 新潮文庫

シリーズものの江戸町人人情小説?「傷」、「再会」と読みました。

最近、両国界隈をめぐっているので、界隈が舞台とかぶっていて、尚さら面白い。

ドラマにもなっているらしい。おすすめです。

慶次郎のような上司がいたら、部下は幸せでしょう。いないけど。

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2009年4月10日 (金)

ヘンリー・ダーガー非現実の王国で

ジョン・マクレガー著 作品社

ネットサーフィン中の記事でヘンリー・ダーガーという作家の存在を知りました。

シカゴで生まれたヘンリー・ダーガーは4歳で母親をなくす。その後父親は体を壊し、若くして施設で暮らす。父の死後、施設を脱走し、シカゴへ戻った彼は、病院の雑役夫として81歳まで小さなアパートの一室で孤独な一生を過ごす。

彼の死後、アパートの部屋の整理をしようとした大家が、彼の部屋に入ると、そこには1万5千ページ以上という、膨大な枚数の小説と、彼の描いた挿絵が残されていた。それが「非現実の王国で」だといいます。

この話を聞いて、どうしてもその絵とストーリーを見たくてたまらなくなり、一冊の本として一部をまとめられた本書をアマゾンで取り寄せてしまいました、6500円という高額だったのですが、躊躇なく。

そして、すばらしい本を手に入れたと思いました。

これは山下清の作品に出会ったときと同じ感激です。

挿絵として描かれた絵画はヴィヴィアンガールズという美少女たちを中心として、子供を奴隷とする王国との戦いが描かれています。

雑誌などの写真や絵をトレースして描いたということですが、そのコラージュ能力はまさに天才だと思います。どの絵も、どの絵もとても魅力的です。

冒頭に挿絵の一部、巻末にストーリーの一部が掲載されています。

ヘンリー・ダーガーは死ぬ前に、部屋にあるものはすべて燃やしてくれと大家に頼んでいたそうです、この芸術的価値がわかる大家で本当によかったと思いました。また、この作品の所蔵や保存、復元などに、資生堂がかなりの出資をしているらしくて、なんと良い文化的支援を行ったのかと、資生堂を見直してしまいました。資生堂の化粧品は肌に合わず仕えないので、せめてこれからは資生堂のシャンプーを使おうと、そしてもしもお金に余裕ができたら、株も買おうなんて思ってしまいましたよ。

本当に、この作品が燃やされなくてよかったと思います。いつか、所蔵されている美術館にも訪れてみたいと思います。(以前、日本でも何回か展示されていたようです、そのころ、ヘンリー・ダーガーの存在をしらなかったことが悔やまれます。)

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2009年4月 1日 (水)

政治的に正しいおとぎ話

著者 ジェームス・フィン・ガーナー DHC

米国にはPolitics Correctという言語があるという。本書では、古典的なおとぎ話に含まれがちな差別表現をすべて撤廃しておとぎ話を書き換えるとどうなるかという実験を行っています。

すべての差別、身体的、性別的、能力的、人種的、年齢的などなどの差別を含まない政治的に正しい言葉に置き換えるということらしい。

背の低い人だと、垂直的にチャレンジしている人

身体障害だと、肉体的にチャレンジしている人

逆に白人は遺伝的にメラニン色素が不足している人なんてなって、なんだか不足って部分で逆に差別っぽくなってしまったりしてます。

特に本書で描かれた「三匹の子ブタ」は面白いです、、というか本書は左翼的な本なのかなぁと思ってしまいました。

オオカミは子ブタが作ったワラの家を吹き飛ばしてそこにオオカミたちのバナナプラントを作ってしまいます。

オオカミはさらに子ブタの木の枝で作った家を吹き飛ばし、そこにオオカミたちのリゾート地を作ってしまいます。

最後にオオカミは子ブタのレンガの家を吹き飛ばそうとしましたが、メタボになってしまったオオカミは心臓発作で死んでしまいます。

助かった子ブタたちは、奪われた土地を奪還すべくテロ組織を構成して、武装してオオカミたちを皆殺しにして奪い返した自分たちの土地で、搾取や略奪のない平等で無償の教育、無償の医療、だれもがマイホームを手にすることができる制度などを打ち立てて理想的な社会主義国家を築きましたとさ、めでたしめでたし、、

なんて話です。理想的な社会主義には搾取者や権力者や支配層などの皆殺しが必要不可欠だとしたら、理想的な社会主義の国に住みたくないや・・ぜひとも皆殺しは避ける方法を考えてくださいなって思う人も多そうです。

やりすぎですが、ストーリー的にはとても面白かったです。続編も読んでみます。

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2009年3月30日 (月)

裏アジア紀行

著者 クーロン黒沢 幻冬舎アウトロー文庫

アジアの物騒な界隈。裏露地を旅した旅行記のようなもの。

日本の裏情報も少し含まれていました。

日本にだって物騒で暴力的で廃退的なエリアは実際に沢山あるし、人生に絶望し不本意ながらそのような界隈で暮らすひともいれば、好んで暮らしている人たちがいるとのですが。

世界中には貧困ゆえにそのような清潔や安全から隔絶されている物騒な界隈で一生を過ごさなければならない子供たちもごまんといるわけで、そんなエリアにセーフティな避難場所(日本)を確保しながら、わざわざ興味本位に、物価が安いから、思わぬ金儲けができるから、麻薬が吸い放題だから、そんなよこしまな心を持ちながら逞しく暮らす日本人がいるわけで。著者はそのひとりとして裏アジアを旅しては旅行記を書いているのだと思われます。

ということで、あまり読後感はよくないですが、そんな輩がいることを知ることも大切なことなのだとはわかっているのです。。そして、各アジアの裏社会の悲惨な現状を生々しく知ることができるということでは本書も価値があるとは思いました。

先日、浅草の酒場で、酔っ払って聞くに堪えないセクハラ発言をわめきちらしていたおじいさんは「俺は戦前からこれまで東南アジアや南方であちこちで女を買ってきたけど、あいつら売春婦だって、俺の金のお陰で家族や子供を養えるわけだから、俺はいいことを沢山してきたんだ、な、そうだろ、そう思わないか」と言った内容でした。周りの客に偉そうに吹聴していました。とても悲しくて腹が立ち、食事もまずくなってしまいました。

貧しい子供や家族を本気でなんとかしたいと思うなら、女を買うカネで学校に行けるようにしてあげろよ。病気の子供たちを病院に連れてってやれよ。あんたたちみたいな馬鹿で愚かな日本人がいつまでたってもいるから、日本人はいつまでたっても尊敬されないだよ!と食べてる鍋を頭からぶちかけてあげたかったのですが。。そこまでの勇気がなかった自分も愚かな日本人のひとりなのだと思います。

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2009年3月24日 (火)

職業欄はエスパー

著者 森達也 角川文庫

一世を風靡したというかつての超能力者たちの今を追うドキュメンタリータッチのストーリーです。

本書によると、かつては何度もテレビにでていたという清田少年も秋山眞人も堤裕司のことも、関口淳のことも、今回初めて聞く名前ばかりで、バラエティ番組で見かけたいう記憶もまったくなかったです(もともとあまりテレビは観ない方ですが、それにしても覚えていない)。

かといって超常現象をまったく信じない派なのかというとそうではないのですが、占い師やらエスパーとして、テレビに出演って時点でかなり胡散臭く感じてしまうというのは確かです。(E原もH木も不快感を持って見ています)。

多分、本物の超能力者だったら、その能力は絶対に人に知られないようにするような気がするのです(「奥様は魔女」のサマンサのように)。

ただ、昔友人が清田少年の超能力を生で見たことがあったのか、「清田くんは本物だよ!」と言っていたことを本書を読んで思い出しました。その清田くんがこの清田くんだったのかと漸くつながったのです。この友人は昨年なくなってしまったので、もはや詳しく話を聞くことができずに残念です。

スプーンが曲がったり、背後霊が見えたりしても、あまり実生活の役に立たないような気がしますが、人生をワクワクさせることは大切なので、大槻教授のようにめくじらたてる必要はないと思いました。科学と非科学、この二つを論争させるテレビの企画ってのが、無茶なのにと本書を読んで思ってしまいました。

湖を歩いたり、空に浮かんだり、そんな人がいたら楽しいじゃないですか。

たしかに、大黒様やえびすさんやコロポックルやキューピッドが実際にいると想像していた方が、なんとなく世界が素敵になるような気がします。

そういえば、萩尾望都の「ハワードさんの新聞広告」やポール・オースター「ミスター・ファーディコ」では、人はみな飛べる能力をもっているなんて話でした。

問題は超能力と偽って、信じやすい人を騙して金品を奪い、破滅に落としいれる霊感商法ケースが後を絶たないことです(信じることでいくらお金を騙し取られたとしても幸せになれるのというのならまぁ、好きに信じてもらっても問題ないのですが。)

無報酬で占いをしてうれたり、ヒーリングをしたりして、相手が気分良く元気に幸せなるのだったら全然OKかと思いました。そんなエスパーだったら友だちにひとりくらい欲しいくらいです。(ただし、背後霊やら前世は見てくれなくていいですけどね)。

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2009年3月23日 (月)

放送禁止歌

著者 森達也 知恵の森文庫

「いのちの食べ方」と同様に、放送禁止歌の存在を通して、部落問題を考えた一冊だと思う。

差別心とはなんだろう。自分は差別心などないという人間が一番人を傷つけているのかもしれない。

美人が容姿にコンプレックスを持っている人にたいして、「人間は外見ではなくて心が大切なのよ」といったら、相手は傷つくかもしれないし。そうよねといって気を取り直すかもしれない。

子供が欲しくても出来ない女性に、子沢山の女性が「子供なんて大変よ、いなくてよかったわね」といったら、やはり傷つくかもしれない。そうなんだ大変なんだ、いなくてよかったと思えるかもしれない。

相手の心次第の場合もあるが、それは発言する相手の性格や心理情況をよく思いやってから発言するべきでなのだ。発言した本人が気がついていなくて、相手はその発言の無神経さに傷つく状態が様々な差別に近いのだと思う。

わたしは差別心などはないと思っている人は、本当にそうなのかもう一度考えるべきなのだと思う。

からかいや侮蔑のつもりの自覚が本人にはまったくなくても、相手が傷つくのだとしたら、自分の発した言葉の中のどこかに相手に対するからかいや侮蔑が含まれている可能性があるのだから。

現職の総理は平気で「株屋」なんて言ってしまい、しかも差別的なつもりはないと言えばチャラにしてもらえる世の中なのですけれどもね。

しかし、おそらく麻生氏の友人にだって、この職業についている人はいるだろうし、政治献金をされているかもしれない。よく言うなぁと思った。

などと、本書の話からズレてしまいました・・

放送禁止歌のように、誰がどういう理由で禁止しているのかも不明のまま、なんとなく問題になったらめんどうだから、自主規制しておこうというのは、逆になんの差別問題への解決にはならないと思います。

差別的な表現のある過去の文芸作品やマンガなども自主規制で絶版になったり、問題の箇所を削除するのももってのほかで、この表現とこの表現はこの時代にはされていたのでこういう作品がつくられた。そういう問題のある時代がかつてあったのだ、だが、それと作品全体の評価は別のものとして読んで欲しい後世の人間はどう評価するかは、後世の人間にゆだねることが必要だと思う。歌詞も、文芸作品も、映画も残していくことが大切なのではないかと思います。

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2009年3月16日 (月)

いのちの食べかた

著者 森達也 理論社

森達也のいろいろな著作や発言を読んでみて、自分とかなり感じ方が似ているような気がしましたので、最近は氏の著作を買い集めて読んでいます。

本書は子供向けの啓発本のような本でした。そして、屠殺の話から部落差別の話へと発展していきます。

疑問に思ったのが、現代では、屠殺や皮のなめしなどの技術は希望する人だったら誰でもが農業高校とか工業高校とか大学の畜産科などで資格や技術を取得するのかと思っていました。または、入社後に研修するのかもしれませんが、誰でも自由にこの職業につけるものとおもっていました。ですが、本書を読むと世襲制のように受け取れてしまいます。それこそ生まれ育ちにこの職業への就職が関連するのでしょうか?

本書は後半に唐突に部落差別の話題に話が移行してしまい、人が生きるために生きている動物を殺すことは必要なことで、そういう仕事に従事している人を差別してはいけないということを子供たちに語っているのですが。

東に住んでいるからなのかもしれませんが、自分には、肉を解体している職業の人を差別するという神経というか感覚自体がぴんとこないのです。この職業はとてもありがたく立派な職業だと思いますし。そもそも、牧場で羊や牛が牧草を食んでいるその隣で、大人も子供も平気でジンギスカンとかバーベキューしてるので、すし屋のいけすと同じで、いくら子供たちだって、あの羊や牛が、このお肉って関連付けは当然しながらおいしくお肉を食しているじゃないかと思うのですが。

今でも、ちょっと山の奥に行けば、捕ったばかりの猪が吊るされてて解体されていたりしており、ジビエなどといって最近ではお洒落なる料理として人気です。

芝浦にはと場があるから、品川周辺の焼肉屋にはもっともレアな美味い焼肉屋が沢山あるらしいなどという嘘か本当かわからないですが、そんなグルメ情報が流れているくらいですし。

なので、今では、肉の解体者、そんな理由だけで人を差別はしないでしょうと思ってしまいました。

とおもったら、ちょっと調べただけで東京都のホームページでも差別の現状が掲載されていました。ということで、西だろうが、東だろうが、馬鹿はどこにでもいるのだと知り、情けなくなりました。

この本は子供たちが読むのかとおもいますが、知識のある大人が子供たちが誤った理解をしないように適切にアドバイスしてあげる必要があるような気もしました。

よく知りもしない差別について語ることはとても傲慢なことだとまたも改めて身に沁みましたた。

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2009年3月10日 (火)

ぷえるとりこ日記

著者 有吉佐和子 岩波文庫

著者の有吉佐和子が実際に29歳のころに留学していたアメリカの女子大がおこなったプエルトリコでのフィールドワーク体験をもとに、アメリカ人の学生と、日本人の学生のふたりがプエルトリコ滞在記のようなものを交互に記すという日記形式で描かれた小説です。

今でいえばブログのような内容なのだと思うのですが、現代にも蔓延する格差社会の根底を暴くような、そんな内容で、面白おかしく読むことは出来ませんでした。

パンもコーヒーもバターも清潔な水や熱いシャワーもあたりまえに自分たちには提供されるべきだと思いこんでいるアメリカ人(そして日本人も)が、大学の現地調査でプエルトリコを訪れます。そこでは、子沢山(平均10人)の原住民の家族が(熱心なカトリックが多いので子沢山なのだそうです)重労働の末に捕った魚を欧米人向けのレストランに卸し、その魚を自分たちは一度も食べたことがないのでその魚がどんな味かも知らないという、そして自分たちは安価なまずい豆ばかり食べている。。なんかおかしくないですか?という、そんな矛盾を描いています。

キューバ危機のころですから、ちょっとでも主人公の日本人女性が貧困層に同情的だったりすると、お前は共産主義(アカ)なのかと白い目で見られる、そんな時代でもあったわけです(まぁ今の日本も似たようなものではありますが)。

貪欲なというか獰猛なというか猛禽なというか、そういう野蛮な人たちがどこのコミュニティにも必ずいて、文明的になりすぎて、優しくなってしまった健全な人たちはひ弱でそういう野蛮な人間たちに対処することができないため、昔でいうと、カネを払えば俺たちがなんとかしてやるぜ、、ってことで、用心棒がスタートしたのに、そのうち守ってくれてた用心棒が腐敗して、超危険な暴力的な存在になって、用心棒にもともと守ってもらうはずの怖い猛禽類と用心棒の区別つかずになってしまい、挙句の果てにはどちらからも、もう搾取されっぱなしの奴隷状態になってしまいましたというのが世界の歴史なのでしょうか。(心優しい働き者の納税者vs猛禽類・銭ゲバ・略奪者の歴史)

現代では、国家や政府が用心棒の役割をしてくれるて猛禽類・銭ゲバ・略奪者から身をまもってくれるはずで、その用心棒代に、ひ弱な庶民は汗水たらして働いて少しばかりの賃金からなけなしのお金を税金や年金として納めていたつもりだったのに、、結局頼もしいはずの用心棒は腐敗して、権力にぎって、横暴に税金はジャイアン遣い。国民を搾取しはじめてしまい、結局、猛禽類も国家や政府も同じ恐怖の存在となってしまいました。。そんな話は、不安定な発展途上の国の出来事かと思っていたら、、よく見ると、日本はまるでこの図式に当てはまっちゃってます。。どれだけ日本の文明は後退してしまったのでしょうか。(それとももともとそんな文明などなかったのでしょうか?)

スペイン人が中南米のネイティブアメリカンをこき使ってほとんど皆殺しにして、そのあと労働力が不足してしまったのでアフリカから奴隷を調達してこき使い、、そして今度はスペインが征服して植民地化した土地をめぐってアメリカとスペインが戦争って、、どれだけあなたたち獣だったんですか?思うのですが、、昔はみんなそうだったのよ、、で済む話なのでしょうか?

本書を読んで、日本の介護事情の話聞いているみたいだなってちょっと思いました。

安い賃金で介護ヘルパーこきつかって、でもみんな体を壊したり、賃金が低すぎて生計が成り立たなくて日本人の介護ヘルパーが次々と離職してしまいました、、ここでモラルのある文明国の政府だったら、介護ヘルパーの賃金や職場環境を改善して、日本に資格をもつ介護ヘルパーが多数いるのだから、職場復帰してもらおうって発想をすると思うのですが、日本の支配層も、かつてネイティブアメリカンを皆殺しにした欧米人と同じタイプの発想をする猛禽類になってしまったのか、、日本人の介護ヘルパー(奴隷)が働けなくなったので、インドネシアから別の奴隷を連れてこようって図式のように見えてしまいます、、、正しいグローバル化というのはそういうことではないはずです、、インドネシアの人たちが、介護ヘルパーとして働くことで、インドネシアやインドネシア人が平和に豊かになれるというのなら、別に異存はないのですが、、なんだか意図が違うような気がしてなりません(安い賃金で重労働を押し付けようなんてそんなことはないですよね、もしも、雇うというのなら、日本人労働者が望んでいたのと同じレベルの賃金と、福利厚生、健全な職場環境がインドネシア人にも必要だと思います。そうできないならやっぱり奴隷を雇ったってことです)。

なんだかなぁ、、本書は1964年に刊行された本ですが、世界の情勢はあのころよりも、圧倒的に悪化してしまっているのが、、救われません。。

楽しい旅行日記だと思って読むとショックを受ける一冊かと思います。

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2009年2月26日 (木)

ベンジャミンバトン

著者 フィッツジェラルド 角川文庫

ブラピの映画化にあわせて翻訳されたということ。

映画を観て早速購入したのですから、出版社の思う壺だったでしょうか?

小説版で映画との共通点は、主人公の名前と、老人で生まれて、赤ん坊で死ぬという部分だけでしょうか?

映画には、永遠の愛というおとぎばなしのようなストーリーでしたが、小説では、老人は精神も老人で誕生し、段々と心も体も若返ってゆきます、老人の頃に若い妻をもらいますが、自分とは逆に、徐々に年老いていく妻の容姿にうんざりしてしまう身も蓋もないストーリです。

映画を先にみていると、原作にショックを受けてしまうかもしれませんね。。

最近話題になった芸能界ネタの、石原真理子と玉置浩二の結婚話が、ベンジャミンバトンの映画のストーリーにちょっと似ているような気がしてしまったのは、私だけでしょうか?

解説に、フィッツジェラルドが少年期に偶然、先日読了したばかりの、サッカリーの「虚栄の市」も愛読していたということが述べられていて、、「虚栄の市」を愛読した少年は、、映画版のベンジャミンバトンではなく、小説版のベンジャミンバトンを作るだろうなと納得した次第です。

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2009年2月25日 (水)

容疑者Xの献身

著者 東野圭吾 文春文庫

過去の作品を読んで、この作家は自分には合わないと思って遠ざけていたのですが、

映画化、、直木賞受賞、、ベストセラー、、とひょっとしたら読まないと大損をするのではという脅迫観念から読んだのですが。

自分の第一印象と変わらず、碌な作家ではないという再認識でした。

なぜ、こういう救いのない作品を書く作家がベストセラーになるのか、、政治家は、、そのあたりから、日本の国民の心の闇を調査するべきなのではないでしょうか?

またもや、、読後が暗澹です。。

この作家の小説を読むたびに、、吐き気にも近い嫌悪感、、暗澹な気持ち、、救いのなさを感じてしまうのです。。

ものすごい多作なのですが、、このまま、このような作品ばかり創作し続けていたら、近い将来小室哲也のような格付けになるのではないでしょうか?

とにかくまったくもって好かない作家だということを再認識してしまいました。

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2009年2月24日 (火)

虚栄の市

著者 サッカリー 岩波書店

大英帝国の栄華を誇っていた時代の虚栄の市に住む人々のピカレスクとでも言うのでしょうか。

登場する人物がことごとく俗物です。。というよりも、、この世に俗物でない人などいないのかもしれませんね。

信心深い人物も、人を信じて疑わない心優しい人物も、人を陥れても自分の楽しみを最優先する人物も、永遠の愛を信じ、盲目の愛に没頭する人物も、、本書では全て皮肉的に描かれています。

所詮、どのような生き方をしても、自分がもっともその生き方が気に入っているからなのであって、どのような生き方が特に勝っているなんてことはない、そんなことを言っているように思いました。

自分の感情を殺して、自分に優しくもない両親や息子にも、つねに控えめに、献身を続けたこころ優しいアーミリアを、自分自身がなく、自己主張できず、心の中では不満や悲しみや屈辱を常に抱いているにも関わらず、現状を改善しようという努力を怠るばかりで、身の不幸を嘆き、弱く誰か頼れる人物を待っている凡庸な女性として描いています。

対照的に描かれているイザベラは、夫よりも、息子よりも、自分が一番楽しいと思うこと、素晴らしいと思える日々を貪欲に追及します。そのために、他人を破産させても、自分を信頼している人を裏切っても、刺激的で楽しい経験を得るべく、猛烈な努力を惜しみません。教養を身につけ、歌を学び、上流な立ち居振る舞いを研究し、自分がどのようにすれば美しくみらるかを追求し、周囲の人たちを楽しませ、一緒に居て楽しい人物と思われるための努力を怠りません。

前者は時に聖人と言われ、後者は堕落者と言われるかもしれません。。

ですが、、本当にそうなのでしょうか。。?人として、どちらにも欠けている点があるのです。

一番素晴らしいのは、人をだましたり、裏切ったりせずに、他者に献身ができる気高い精神を持ちながら、それでも与えられた人生を最高に楽しいものとするための努力を惜しまず、一緒にいると楽しいと思われるような人間になることなのでしょう。。(本書では、少なくても支配者になるような人物にはそんな人はまずいないって書かれてましたが。。)

大抵の人間は、真面目で誠実だが面白みがない、冒険もしない。反対に、、一緒にいて楽しいが信頼が置けない、、カネの無心をしてくる。。ギャンブルに走って女性を泣かすなんてことが多いのかもしれません。

本書では、唯一ドビン少佐が、教養も気高い精神もユーモアも全てを持ち合わせている人物として描かれています。。それでも、、そんなドビン少佐が、なぜ、常に人任せで自分の人生を切り開こうとしない、純粋といえば純粋だが、世間知らずの馬鹿といえば馬鹿とも言えるアーミリアに何十年にも渡って片思いを貫いていたのか。。というと、、一目ぼれの初恋なので仕方がないのですね。

最終的に、アーミリアは、ドビン少佐と人生を共にするというチャンスを得られます。この幸運により、おそらくは正式な人生の楽しみ方を覚えていくはずでしょう。。結果的に長い不幸に、辛抱強く耐えてきたことで、ご褒美のようにハッピーになったのですが。。このことには、多くの読者が不満を覚えたことでしょう。。アーミリアは耐えたこと以外は何もしていないのですから、、そして現実の世界では、不幸や貧乏にただ耐えているだけでは、現状は一向に改善しないことを誰もが知っているのです。(仏教ではあの世で極楽が待ってるのかもしれませんが)。

イザベラは、三銃士のミレディ、サロメ、カルメン、ルパン三世のふじこちゃんのような毒婦ではありますが、、それでもなんとも魅力的な女性であることには代わりはないようです。どのようなコミュニティーに参加しても、必ずや女性には不人気であることは間違いないですが。。

人間の愚かさをたっぷりと描いてくれた本書は、いくばくかの哀愁とともにくすっと笑える、そして、ああ、人生はなんて馬鹿馬鹿しくも素晴らしいのだろう!と思えるそんな作品でした。

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2009年2月16日 (月)

もの食う人々

著者 辺見庸 角川文庫

初版が1994年でその後ベストセラー、各賞も受賞ということですから、いまさら読んだのと言われそうですが。。いまさら読みました。

なので、内容についても、当時の読者が覚えたであろう衝撃はなかったです。おそらく、似たような本が次々と出版され、私はそちらの方を先に読んでしまっていたからです。

テレビや新聞では、ソマリアの悲惨さも、コソボやルワンダの虐殺も、ダルフールの悲劇も、グルジアの惨状も、イラクの惨状もまず詳しく報道されません。報道するとなにかまずいことがあるのでしょうか、それとも国民が興味がないから視聴率も取れないので大きく報道しないのでしょうか。もしも全てのキー局でワイドショーや食事時やゴールデンタイムに常に生中継で連日連夜世界中で飢えて死んでいく子供たちや人権侵害を受ける女性やお年寄りの様子を豊かな国のテレビで流し続けたら少しは何かがかわるでしょうか?一度実験をしてみて欲しいものです。

豪華な食事をしていても、楽しい遊びに興じていても、心の片隅に世界で飢えて死に掛けたり、無意味な戦闘で両親を失ってしまった子供たちやがいることを知りながらそれでも無関心に豊かに暮らし続けている。。この残酷な心の麻痺。

ですが、その一方、仏様のように煩悩がなく、物欲も食欲も全くない人は一緒にいて楽しくありません。あれも欲しい、これがしたいと欲望がぎらぎらしていて、食べることが大好きで、歌うことや、踊ることや、スポーツやギャンブルや恋愛などなど、人生を楽しむ快楽的なことに熱心な人は人間的な魅力に溢れていると思います。宗教の世界ではこのように暮らす人々は堕落者とか退廃者とか言うかもしれませんが、一番人間らしい豊かな状態だとおもいます。

おそらく、ソマリアやジンバブエで飢えて死に掛けている人たちだって、満足な食料があり、命の危険のない安全な住居のある、豊かな環境に身をおいて、宗教的な禁止などがないような状態だったら、きっとグルメや音楽や恋愛に夢中になると思います。

文明の花を咲かせて、人生を謳歌することは決して人として間違った行いではないと思います。ただ、誰かの命を犠牲にしてまで貪欲に謳歌するほど、文明は大切なものではないともおもいます。

そのあたり、、どう釣り合いをとるかが、文明国に住むひとびとの人としての尊厳なのかなぁとおもいます。貪欲すぎるのは逆に文明的ではない野蛮な状態と思いますので。。異国の知らない他人が、飢えて命を落としていくとに無関心だということは、それだけで、凶悪な殺人者と同じ暴力的な人間だと思います。

もしも、目の前に、お腹を空かせた赤ちゃんが泣いていたら、無関心ではいられない、これは文明的だと思います。それすらも目を逸らして見えないふりをするのだとしたら、すでにその国に住む人々は豊かな人々とはいえないような気がします。

そのうちふたたび日本にも貧困と飢えの順番が回ってくるのかもしれません。。すでにその順番の時代に突入しているようにも思えます。。

その前に、、出来る限り楽しんでおこう。。現代の日本人は最後の悪あがきをしているのかもしれません。。自分もふくめて。そうだとしたら、歴史のトータルでは釣り合いがとれています。。そう遠くない将来には、アフリカや南米の人々が豊かに文明を謳歌して暮らし、、日本や欧米に暮らす今現在充分な食料があり、豊かに暮らしている人々が、アフリカや南米からの支援物資を腹を空かせて待ちわびる民になっているかもしれません。。人々はものを食わずにはいられないのですから。。

散々困ったひとに無関心だった人たちは、自分の番がきても泣きごとを言わないようにということかもしれません。

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2009年2月13日 (金)

東京裏露地<懐>食紀行

著者 ブラボー川上 藤木TDC 筑摩書房

戦後闇市の跡に現代も残るディープな居酒屋を巡る男性雑誌のコラムを文庫にまとめた一冊。先日両国に獣の肉を一緒に食べにいったときに森達也の「死刑」と交換にS男にもらった一冊である。(前回死刑の話題で揉め、彼がまったく死刑について勉強不足だったので、一度勉強してから再度議論開始していという魂胆です)。死刑廃止論者の森氏の本とあわせて、存置論者の藤井誠二氏の「重罰化は悪いことなのか」も持参しようと思いましたが、重たかったので今回は森氏の本のみ渡しました。

嫌韓本ばかり読んでいると思っていたら、なかなか面白い本も選んでいるではないですか。本書は、戦後まもない昭和と、現代との歴史というか、、まことに深い一冊でした。

本書を読んでいると、いかに戦争末期の空襲が恐ろしかったかがわかります。上野も新橋も新宿も赤羽も、闇市が立ったところは全て焼夷弾で焼け野原になった跡だということです。

闇市のなごりは新宿だと「思い出横丁」、花園神社界隈。新橋だと「ニュー新橋ビル」や烏森神社界隈、上野だと「アメ横」などなど(焼け出されて、神社の境内にあちこちに闇市が立ったらしいですね)。また、神社の近くに赤線、青線という公娼、私娼街があったというのも、戦後の復興のために全国から集まった若い労働者のためには食を提供する闇市と、女街が密接に誕生したという必然性にも、納得がゆきました。

思い出横丁も新橋の烏森神社界隈もS男と安酒で酔っ払って盛り上がるときに使う大事なエリアなのですが。。これまでとは違う、戦後の日本を、ここまで豊かに高度成長させてきた諸先輩たちのエネルギーの供給所だったのですね。今後はもっと神妙に心してこのような地に足をはこびたいと思いました。

それにしても、、終戦後、たった5日でバラックが建ち、埼玉や千葉から農作物や日常品を仕入れ、売りさばくようになった商魂たくましい方々にはある種の尊敬の念すら感じてしまいます。(でも、逆をかえせば、その当時、一儲けした方々は、人の弱みに付け込んで甘い汁を吸った吸血鬼のような怖い人たちだったのでしょう。。そう思うほど、戦争は嫌だ~と再認識してしまいました)。

S男もたまには良い本を持参してくるものだと、感心した次第であります。

一読の価値ある一冊でした。

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2009年2月 9日 (月)

四角いジャングル

著者 寺山修司 角川文庫

寺山修司の学者・作家・映画監督・評論家などとの対談集です。

寺山修司は1935年生まれですが、83年に47歳の若さで亡くなってしまいましたが、対談相手は三島由紀夫を除いて、ご健在または天寿をまっとうされています。。三島由紀夫は自殺ですから、、寺山修司と対談した人は長寿というジンクスでもあるのでしょうか?

対談相手は

勝田吉太郎(法学者) 1928年生まれ 

三島由紀夫(作家・革命家(?) 1925年生まれ 享年45歳

鶴見俊輔(評論家) 1922年生まれ

別役実 (劇作家) 1935年生まれ

篠田正浩 (映画監督) 1931年生まれ

野口武彦 (評論家) 1937年生まれ

浜尾実 (皇室評論家) 1925年生まれ 享年81歳

山崎朋子 (ノンフィクション作家) 1935年生まれ

羽仁進 (映画監督) 1928年生まれ

野坂昭如 (小説家) 1930年生まれ

それにしても、本書の対談が行われたと思われる昭和40年代後半と、現代の社会情勢が酷似しているのかしれませんが、、読んでいると、現代の社会評論を登場人物がしているように見間違ってしまいます。。

例えば、暴力(テロ)について、寺山氏はこのように発言しています

社会のシステムや管理のなかで、なんの役割も与えられていない、なんの特権も与えられていない人間がものを言いたいときに、言う方法をどのように持つかを考えてやらないと、代替の利かない最小限の人間の衝動を禁ずることになる。

寺山氏は他の作品でも書いていますが、家出を進めています。子供という存在が家庭や社会のシステムにとってのかつての労働力や跡継ぎといった役割からはなれ、家族の愛情の道具、自己顕示欲の道具、ペットのような存在になってしまった場合、家族は内的なものにとどまってしまう(これはひきこもりやニートの問題とつながるような気がします)。家族の愛という名のエゴが、自分の子供のもつ人格のある人間としてのさまざまな可能性を阻害しているのではないのだろうか。。だから家を出ようという話のようです。寺山氏の元には家出少年や少女が集まってきてしまい、そこで天井桟敷を立ち上げたようです。

なんだか、寺山氏は派遣村の村長の湯浅誠のようにも思えます。。(帰る家がないという派遣村の村民の人たちは家出をした人たちとも考えられます)。湯浅氏は派遣村の村民たちと、演劇集団でも起こしてみてはどうだろうか・・なんてことも考えてしまいました。

それにしても、本書を読んで、まったく時代に後れていない内容に、この国の人々は昭和の時代から一歩も進歩していないのかもしれないと感じてしまいました。

ところで、三島由紀夫・石原慎太郎はどうしても好きになれないと思っていたのですが、本書を読んで、納得しました。

太宰治の斜陽について「華族は台所のことをお勝手なんて言葉をつかいませんよ、お勝手は民衆の言葉です、そのような間違いを僕はゆるせないんです」。。嫌な奴だ。。と思いました、、友だちになれないタイプだな。。と。

太宰も三島もこの世にいなくなり、、後世で二人は似ているなんて言われていることについてどう感じているのでしょうか?

そして、なぜだか寺山氏には共感を覚えてしまうのです。

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2009年2月 4日 (水)

オバマ・ショック

著者 越智道雄・町山智浩 集英社新書

町山氏の著作はかなり核心をついている上に、文体も面白い上に読みやすいので、即購入しました。

読んでいて思ったのが、これまでの共和党(ブッシュ政権)の支持母体だったキリスト教原理主義者など(国民の3割近く)が、8年間のブッシュの悪政で、さすがに生命の危機に至り、ようやく気がついて民主党を選択したという図式がわかりました。

これまで、客観的にみたら貧乏だとしても、、生まれたときからその生活(貧乏)で、周りもみんな貧乏なので自分が貧乏だとまったく気がついていなかったキリスト教原理主義者たちのみなさんは、貧乏人にはなんのメリットもない政党にもかかわらず、宗教的にキリスト教原理主義派だというだけでブッシュ政権を支持してしまった結果、気がついたら自分たちがとことん貧乏になって餓死寸前になってしまって、ようやく自分たちの貧困と、支持政党の政策のギャップに気がついて、、(つまり、今までずっと共和党に投票してきた、この貧困層の貧困の原因がブッシュだと気がついたわけです)。

これは同じ図式で、田舎にいるお年寄りや信仰深い人たちは自民党や公明党が自分たちの味方だと妄想していて、、長い間、彼らは自民・公明の支持母体だったわけです。。自分たちお年寄りや信者以外には冷酷な政策をしていても、自分たちには特別に優しい政権だと思いこんでいたわけです。。

ところが、、小泉政権以降。。話が違う。。年寄でも、いくら信心深くしてても、、貧困が津波のように押し寄せてくる。。これは駄目だ。。となって政権交代なるか。。?

と、アメリカと同じ図式で日本も流れるのでしょうか。。それとも、お年寄りや信仰心の厚い方は、、マゾ的なストイックさで、やはりこれまでどおり自民・公明を支持し続けるのでしょうか?

次回の選挙は日本人の精神構造がアメリカ並か、それ以下かをみる興味深い選挙であることには間違いありません。

とにかく、公明党の支持母体といわれている、とある宗教団体の信者がもしも、現在の政策に失望を覚えて、殆ど全ての信者が公明党以外の別の野党に投票をはじめたとしたならば。。それはアメリカのオバマ・ショックと同じ歴史的な出来事になるということなのだと本書を読んで思いました。

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2009年1月23日 (金)

重罰化は悪いことなのか

著者 藤井誠二 双風舎

どちらかというと死刑廃止論者の森達也の「死刑」と対にして読んでみました。

著者は死刑存置論者です。犯罪被害者の遺族の立場を尊重すると、厳罰化が必要との主張をしています。

本書の著者は、加害者の成育環境にどのような不幸な出来事、深刻な問題があろうが、または、知的障害者や精神障害者だろうが、被害者の遺族にとっては、関係のないこと、、どのような殺人者も人を殺したら同じような懲罰を受けるべきだというスタンスです。

人の命を虫けらのようにあつかう凶悪な人間に生きている理由があるのか、、と考えると、それはそれで考えてしまいます。

平気で人を殺せるほどに病んでしまったその心は、本人ひとりの責任ではないような気がするのです。。家族、友人、地域、学校、会社など、その殺人の人生に関わった多くの関係者には全く責任がないのでしょうかと思ってしまうのです。人は社会的な存在です、、よちよち歩きの言葉も拙い赤ちゃんが、ある日理由もなく残酷に人を殺したなんて出来事は絶対に人類史上おそらく一度も起きていないと思うのです。

たとえば赤ちゃんが偶然たまたまピストルを手に握ってしまい、それを握り締めたら、人が死んでしまったとした場合、その赤ちゃんを死刑にすることが正しいと思う人はいるのでしょうか?(これは、知的障害者や精神障害者について、かつて39条で権利を守っていたこととと関係した発想方法です。赤ちゃんの意思とは無関係に赤ちゃんが手にしてしまった凶器、について罪が問えるのでしょうかという話です。※障害自体が凶器なのではありません、凶行に使われた行為・道具の本来の扱い方・意味をよく判っていないという部分が問題です)。

そうした疑問を抱きながら本書を、、読み進めば読み進む程、やはり厳罰化は慎重にならねばならない気がしてきました。

だって、法律は、制度であって、懲罰は法律を逸脱した行為に対して課されるべきもので、被害者遺族の感情の救済がメインではないと思うのです。

とくに刑事罰については国家(つまり主権民主主義の国では国民の総意で)決めた法律に書いてあること(故意の殺人または強姦、強盗などの理由で死に至らしめたら懲役または死刑)を司法が量刑を決めて、行政が施行するという流れがあるわけで、遺族の心を深く傷つけた場合は死刑とはどこにも書いてないと思います。(今後法律が変わるかもしれませんが)。

理不尽な死に方で家族を突然に失うことは多分、凶悪犯罪や通り魔など以外の原因の方が圧倒的に多いと思います。。

交通事故、脳溢血、心筋梗塞、落雷、溺死、窒息死、、どのような死でも、突然の死に残された遺族はそれぞれやるせなさで、愛する人の死を受け入れることはとてつもなく難しいと思います。。

交通事故(たとえば自損事故)は、本人の不注意もあるかもしれませんが、自動車の設計に問題があったのかもしれません、スピード規制以上のスピードが出るような車、(今の技術だったら、高速のゲートを通らないと80キロ以上スピードが出せないようにする技術など可能だと思うのですが。。)そんな車を作ったメーカーや売ったディーラーが加害者ともいれるかもしれません。交通事故死の遺族は、殺人を理由に自動車会社を訴えて、責任者を死刑にすればよいのでしょうか。。

たとえば過労での脳溢血や心筋梗塞はストレスや不規則な生活を強いた会社の上司や人事を訴えて、死刑にすればよいのでしょうか、、では落雷は、、溺死は、、だれを恨んだらよいのか?故人はどこに恨みをぶつければよいのでしょうか。

森達也氏の死刑の感想でも書きましたが、犯罪被害者本人は、自分が残酷な恐怖と残酷な苦痛を味わったからという理由で、、加害者にまったく同様の恐怖と苦痛を与えることを良しと本当に思っているのでしょか。被害者は亡くなってしまっているから、問いただしてみることができません。

つまり、被害者遺族の感情というのは、被害者本人の意思とは別個の感情なのだと思うのです。

もしもある日、自分が理不尽に通り魔に虐殺されてしまった後に、自分の家族が、犯人が死ぬまでは心が休まる日がこないという状態に陥ることを想像したら、大変つらいことです。

また、自分の家族や恋人が、自分のことを、正当な理由さえあれば、人の死を当然と思うような人間だと思っていたのかと思うと悲しくもなります。。

自分は、もしも加害者が恨めしく、祟りたい場合は怨霊となって自分で祟り殺したいとおもいますので、自分の死を理由に、自分の家族や友人が自分のためだと思って、殺人を犯すことは絶対に嫌だと思っています。

まともな人は、人に恐怖や苦痛を味合わせたくないと思うのではないでしょうか。それとも、やはり、犯罪被害者は、自分を殺した犯人だけは、殺しても良い、恐怖や苦痛を味わっても良いと思うように必ずなるものなのでしょうか。もしも、そうだとしたら、被害者の意思を遺族が継いで徹底的に加害者との死刑を求めて戦うというのはわかる気がします。

意思表示カードのように、もしも自分を理不尽に殺すような奴がいたら死刑にしてくれ、と意思を残しておくというのも手かもしれません。被害者も死刑を望んでいるということが証拠となりますから。(でも、その情報が流出したら危険なので現実的ではないですね)。

ひぐまに襲われたら、人を襲ったひぐまは、裁判なしに射殺できると思います。。ですが、人を襲った人は、裁判で量刑を判断します、、人は、人を襲っても、やはり人のままなのだと思うのです。

本書の中で、対談相手の芹沢氏が語っていたのですが、、被害者遺族の悲しみにたいする癒しは、犯人を重罰で罰することではなく、もっと別の法的な制度による、手厚いケアが必要なのではないかと思いました。(遺族が被害者の死によって、突然経済的に困窮したりしないようなケア。また、遺族の心の悲しみ痛みに耳をかたむけ癒すことのできる専門家によるケアなどの体制を整えるといったことです)。

本書、および森氏の「死刑」を読み、何度も何度も、自分の愛する人が理不尽に殺されたら、犯人を死刑にしたいか想像してみましたが、やはりわかりません、、自分の愛する人がいなくなってしまったら、、もう何もかも、どうでもいいような気がしてしまいます。

犯人が生きていようが、生きていまいが、、のほほんと笑ってくらしていようが、、どこかでのたれ死んでいようがもう自分には関係ない、、興味も湧かないような気がします。。自分はもう二度と愛する人と会えないことだけが真実で、その真実が果てしなく悲しく、、深い絶望の淵に立ち続けるだけなような気がします。。おそらく、そして、愛する人は、わたしの心を鬼にして、、必ずや加害者に復讐をしてくれとは頼まないような気がします。。。

とはいえ、、わたしは犯罪被害者遺族でもなく、知り合いにも被害者遺族が一人もいません。ですので、想像力の欠如は否めません。。口で言うのは、たやすいということは判っています。想像を絶する遺族の深い苦しみと悲しみを実際に経験したら、意見がまったく変わる可能性が充分にあると思っています。

本書の読後感でも、、やはり重罰化には疑問が残り、、死刑存置についても慎重に議論を行って欲しいとおもいました。これから、裁判員制度が始まり、、国民ひとり一人にとって、懲罰や死刑は人任せの話ではなくなってくるのですから。

最近の、、事件があると、「死刑だ!死刑だ」という風潮には空恐ろしい気持ちがします。

このまま、日本が少しずつ重罰や、死刑宣告、死刑執行がスムースに行える国にシフトしてゆき、、「死刑だ!死刑だ!」と2chなどのネットで叫んでいる本人が、ある日気がつくと自分が死刑台に立っていた、、ということだって充分にありえるのですから。

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2009年1月20日 (火)

シャングリ・ラ

著者 池上永一 角川文庫

読んでいる最中、筒井康隆(幻想の未来)やPKディックの(アンドロイドは電気羊の夢をみるか)などの近未来SFと、、風の谷のナウシカと、同人誌系エロコミックに、ガンダムとか、北斗の拳とか、銀河鉄道999とか、幻魔大戦とか、そんなテイストごちゃまぜだなぁと。。おもいつつ、さらに環境汚染、投資経済といった時事的なエッセンスを絡めた感じの小説で、、どこかで読んだことがある部分と、経済音痴なのも伴って、結局本書で作者がなにをしたかったのかよくわからない読後感だったのですが、、最後で筒井康隆があとがきを書いていて。。本作は習作のようなもので、次の作品「テンペスト」は完成系だと述べていて、昔の筒井康隆は非常に面白かったが、最近はめっきりなので。。そんな筒井康隆の賛辞は果たしてどうなのだろうかと思いながらも。それならば、「テンペスト」も読んでみたいと思いました。

それにしても、山ほど人を殺してきた主要な主人公がそれぞれ大団円を迎えるところにはまったくもって違和感がありました。。しかも経済システムのために難民となり、貧困にあえいでいた仲間たちと反政府ゲリラとして戦っていたはずの主人公が、最後には新たな経済システムを構築して、東京を再建させようとするのですが。。これでは、また世界のどこかでべつの経済難民が発生して、どこかでだれかが貧困に喘いでしまうのではないのでしょうか?

また、作中に名前を与えられていない多くの人々は、虫けらのように次々と死んでいくのにもかかわらず、、作中に名前のあるほとんどの主要なメンバーは何があっても死なずに全員、一人残らず生き残る。。なんだかその展開にはがっかりです。

本作のストーリーは同人誌系のオタクぽいのですが、ベストセラー、、尚且つ、TVアニメにもなるとのこと。。ウームとおもってしまいました。。。

力ずくで戦闘に勝てる身体能力があったり、高貴な血筋だったり(本書では神武天皇の血筋)、天才的に金儲けが得意だったり、高いIQの持ち主だったり、あらゆる能力に秀でていたり(たとえどれだけ残虐で冷酷だとしても)、なんらかの理由で権力を手にできる人間以外は、戦闘で吹き飛ばされて、虫けらのように死んでしまっても仕方ないんだよ、そんな小説がTVアニメ化とは。。

なんだか悲しくなってしまいました。でも、この小説が大うけするのが時代の風潮だとしたら、これからの社会はますます力のあるものだけが生き残る、経済格差が広がる弱肉強食の社会になってゆくのかもしれません。

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2009年1月17日 (土)

死刑

著者 森達也 朝日出版社

死刑の感想の続きです。

現在、江東区の事件の公判中で、被告の公判の記録を読むと、あまりにも惨く、死刑について深く考えさせられてしまいます。

このような残虐な殺人については死刑以外ないのではないのかと思う一方で、

飲酒運転で殺されても

恋愛関係のもつれで殺されても

いじめの仕返しで殺されても

窃盗目的で殺されても

被害者の遺族にとっては大切な遺族を奪われてしまったことには違いはないわけで、どのような情状の余地があったとしても、被害者が死んでしまったという事実は同じということで、そこに量刑が加わるのは納得できないのではないかということ。

その反対に、苦痛を伴わないように急所を狙って一発で殺した場合と、苦痛と恐怖を伴って殺戮して、その上死体までバラバラにして陵辱した場合と、やはり同じ量刑ではおかしいのではないかという意見もあると思います。

同じ死刑でも、前者のように、被害者が恐怖や苦痛を伴わずに死に至らせた場合の殺人では即死の死刑、後者のように、恐怖と苦痛を伴わせた殺人の場合は、同レベルの苦痛と恐怖を伴う死刑があってもいいように思えてしまいます。(人権的に無理なのかもしれませんが)。

それにしても、死には死、恐怖には恐怖、苦痛には苦痛という報復は、、やはり文明的な刑罰ではないのだと思います。

もし、このような報復が文明国家で認められるのだとしたら、現在のイスラエルのガザへの空爆を非難することなどもできなくなってしまいます。

世界的にも日本が死刑存置国家であることで、文明国家として遅れているという理由もこのことだと思います。

特に日本では死んでしまったら皆仏様になってしまいます。残虐な殺人犯をそんなに簡単に仏様にしていいのだろうかという問題もあります。光市の犯人などは、あの世でまた被害者と出合って結ばれたいなんて言い出す始末です。

確かに、死刑制度は、遺族より先に加害者を被害者の住むあの世に送り込んでしまうわけですから、考えたら死刑は、もっとも避けたい制度のような気もします。できるだけ長く、このような犯人は被害者に近寄らせないためにも、現世で戒めにあって欲しいと思うのです。

それにしても、江東区の犯人のような、羊たちの沈黙ばりの猟奇的な犯罪者にはどのような刑がふさわしいのでしょうか。。被害者の遺族にとっては、被告がたとえ今後改心したとしても清らかに更生したとしても、決して許せるものではないと思います。。他人の自分でも、この犯人は、公判の内容を聞けば聞くほど、心が壊れている恐ろしい人間とは別の怪物のようにしか思えません。

今回の公判で、被告自らが、「自分は死刑だ!」と発言したそうです。猟奇的な殺人犯は、すでにまともな思考回路が働き始めたのでしょうか。。哀れなことです。。

それにしても、この犯人を死刑にしても、それで事件は終わるのかというと終わらない。。やはり懲役200年、、の方が向いているような気がします。

まだまだ自分の心の中で自問自答が必要ですが、今の段階では、次のような理由で自分は死刑廃止論者なのかなぁと思います。

・まずは冤罪のままの死刑執行の可能性が残っていること

・自分が遺族だったら、被害者の住むあの世に、加害者を自分より先に送り込みたくないと思うこと

・死には死を、苦痛には苦痛を、恐怖には恐怖をというのは報復の応酬で憎しみは無限であること。空しさだけが残る。

・死刑という制度がある限り、遺族は犯人の死刑を望んでしまう。しかし、おそらく被害者は、自分の愛する家族や友人などの親しい人たちが、誰かの死を望みながら日々を送ることを決して望まないと思うから。(但し、死刑という制度がないと、自分の手で殺す、、という遺族が出てきてしまう可能性もあり、それはますます亡くなってしまった被害者にとっては悲しい出来事だと思うので、この点は悩ましい点です。)

今の時点ということでこの結論は中間結果です。今後もいろいろな書籍などを読んでみて、深く考えてみたいと思います。

今後始まる裁判員制度のためにも、多くの人に死刑制度について、今一度思考をめぐらして欲しいと思います。

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2009年1月 6日 (火)

王様は裸だと言った子供はその後どうなったか

著者 森達也 集英社新書

高校時代に、芥川龍之介の羅生門に習って、今昔物語の中から題材を選んで物語を作りなさいという課題で、創作したり、本書の通り、物語のその後、ということで「アルプスの少女ハイジ」のその後を考えなさい、という課題があったりして、みんなそれぞれとても面白い作品を書いていて、楽しんで読んだことを思い出して、本書もそんな感じなのだろうなぁと思って入手したのですが、、

どちらかというと、森氏の主義主張を述べるために、強引に昔ものがたりを引用したようで、思っていた内容とはまるで違ったのですが、森氏の考えには、かなり近いところがある自分でありました。

たとえば、私はパイレーツオブカリビアンでは、特に次々と大砲で飛ばされる名もなき兵隊さんの家族のことが気になって仕方がなかったし、、インディジョーンズでも、インディにバタバタと殺されるジャングルの原住民が気の毒でならないし、とにかく、チャンバラでも戦争者でも、豪傑や英雄の話よりも、その他大勢のはかなく散っていく無数の脇役のひとびとのそれぞれのこれまでの人生のほうが、ずっと気になって仕方がなかったので、仮面ライダーに登場するショッカーの戦闘員ひとりひとりの暮らしにスポットライトを当てたりする森氏に近い感情を抱きました。

とはいえ、最後のドンキホーテを、無理やり靖国問題に結びつけるのはちょっとやりすぎな気もしましたが。。

本書で、森氏の作品は「死刑」に続き二冊目ですが、、おそらく思想的に近い人なのではないのだろうかという気がいたしました。

ですが、やはり本書に比べると、高校時代に部活の先輩たちが書いた「ハイジのその後」シリーズそれぞれが本書よりも面白かったですが。。

(ハイジとクララでピーター争奪戦、とか、、じつはハイジは宇宙人でUFOが迎えにきて故郷へ里帰りしたとか、、クララの家が破産しておちぶれてクララは娼婦になり、、とか、、とにかく発想たっぷりでどれも面白かったことをよく覚えています、、かれこれ数十年も前の高校時代に読んだ高校生の作文なのですが。。)

それにしても、、今考えると、、高校生の授業って楽しかったんですね。。

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2008年12月24日 (水)

だから山谷はやめられない

著者 塚田努 幻冬舎アウトロー文庫

将来の進路について不確かな気持ちを抱える大学院生が、ボランティア側という立場に疑問を抱き、半ば興味半分に山谷のドヤ街や、地下鉄工事の工夫、山奥での飯場などで暮らした180日間の体験記です。峯山政宏氏の「地獄のドバイ」と同様、体験期間が極端に短すぎますので、かなりレポートには偏りがあるという想像はつきますが、面白い試みの小説でした。

コロンビア大学院卒業後に石油タンカーの乗組員や農業経験の果てに作家になったポールオースターに経歴が似ているような似ていないような。

今後の作家活動に注目です。

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2008年12月22日 (月)

死刑

著者 森達也 朝日出版社

先日に新橋の居酒屋で飲んだ友人のS男は自分とは思想がかなりかけはなれた人物です。

 まず、嫌韓・嫌中を公言し、理由を聞けば「嫌いだから嫌いなの!」という子供が人参嫌いを説明するのと同じようなことを言う男です。この話でも、いつも論争になるのですが、

 今回は東金の事件の直後だということもあり、刑法39条と、死刑制度の話題になりました。

 ここでも、彼は私とことごとく意見を異にしていました。彼の説では「人を殺したら死刑、人を殺すような障害者は死刑か一生隔離」といった極端な主張をしていました。「人を殺すような奴は人間ではない、獣なのだから射殺か隔離だ」。。そう言うことを言うのです。。

でも、そうなのでしょううか。。自分はそんなに簡単に重犯罪者にたいする死刑や、障害者にたいする刑罰について、考えを決めることができません。

その理由は、自分は愛する友人や家族を人に殺されたり、重い障害を与えられたりされた経験がないからなのかもしれません。

それでも、人を殺したら死刑というのは、どういう理屈なのかについては、ずっと考えています。。身勝手な理由で人を殺した場合死刑といったときの、身勝手な理由の尺度を決めるのは法律で、その法律は人が決めるからです。

歴史上に登場する多くの人物は、それこそ織田信長も、徳川家康も、豊臣秀吉も、また明治維新で活躍した幕末の志士たちも、おそらく、殺される側からみたら、かなり身勝手な理由で人を山ほど殺しています、、なのに彼らは歴史上の偉人やら名将やらと扱われています。織田信長の子孫も、徳川家の子孫も、人殺しの末裔と言われて肩身狭くして生きているわけではありません。。

死刑(人殺し)は法律で定められた刑罰のひとつなのです。

国家の法律を破ったらどんな微罪でも必ず死刑というならまだわかりますが、、人を殺したときだけ死刑となると、死刑は人を殺すことになり矛盾が生じます。

死刑制度を賛成する人たちは人が人を殺すのは罰せられるが、制度は人を殺してもよいと考えているのかもしれませんが、今の日本は王様や大臣が好き勝手に法律を決めたり刑罰を決めている国ではありません、主権在民の民主主義の国です。

法律などの制度(システム)をつくるのも、司法も行政(警察など)も国民が国に執行を委託しているだけで、そもそも、犯罪を犯した人を逮捕して捕らえるのも、その犯人をどうするかの法律を決めるのも、法律に照らした量刑を決めるのも、委託元としての大元の執行者はすべての国民一人ひとりなわけになるのです。。

つまり、毎年国民全員は(死刑囚)を必ず何人かは殺しているわけになるのです。

別に鳩山元法相が死神なのではなく、国民全員が死神なわけです。

今年は10人以上だそうですが。。つまり、この死刑制度のある国に住んでいる国民全員は、おぎゃーと生まれた日から最初に死刑が執行された時点で、理由はともかく、立派な人殺しになってしまうわけなのです。

死刑囚は法を犯して、理由があって、国が認めて殺されるのだから問題ないなんて言うかもしれませんが、その法律を作るのも人間ですし、国民が立法を委託しているだけで、実際にその法律の責任は全国民に責任があるわけです。そして、人は間違いを犯すものです、法律自体が間違っている場合もありますし、裁判が適正に行われない場合だってあるとおもいます、、明らかな冤罪で過去に亡くなった方がたも実際にいるわけですし、今現在の確定死刑囚の中にも100%いないとはいいきれません。

ですので、特に死刑などの、取り返しのつかない事案については、検察も、裁判官も、そして死刑執行にサインをする法務大臣も、小さな子供から寝たきり老人までのすべての国民のもっとも重い権限を委託された代理人として、絶対に間違いないように慎重に仕事を行ってくれていればいいのですが、鳩山元大臣などのベルトコンベアー発言にも見受けられるように、どうもそうは受け取れないから恐ろしいのです。

死刑制度のある国民は小さな赤ちゃんから、寝たきりの老人まで、全員がときどき人殺しをしているわけで、、今、100歳のお年寄りくらいになると、戦後から数えただけでも、かなりの人数を抹殺してきたという計算になるわけなんですよね。。

自分の隣にすやすや寝ている生まれたばかりの可愛い赤ちゃんだって、次に死刑囚が死刑執行された時点で、なんの通知もされずにひそかに人殺しの一員になってしまうわけです。。

これは、、主権在民の民主主義国家で、なおかつ死刑制度のある国に住む人間に課せられたサガなのですが。。結構この点について国民は無自覚なんじゃないかと思います。

かといって、では自分は胸を張って死刑廃止論者だと言えるかと言うと、、犯罪被害者のことを考えるといえません。。

ただ、国民全員は、被害者になる可能性だけではなく、冤罪による確定死刑囚になる可能性もちゃんと考えて死刑制度を考えるべきだと思います。身に覚えもない罪で死刑になってしまったとしたら、どれだけ恐ろしいことかということをもう少し想像してもらってもよいかと思います。

また、、先日まで読んでいた日本の呪いにも書かれていたとおり、「人を呪わば穴ふたつ」ということがあります。誰かに死んで欲しいと心から望むことは、、本当に恐ろしい感情のような気がします。。自分の愛する人を殺されたら、きっと相手に死んで欲しいと思うのかもしれませんが、、殺されてしまった被害者、当の本人は、自分の親や祖父母や兄弟や恋人がたとえ自分を殺した相手だとしても、だれかの死を願うような心で暮らす日々を決して望むことはありえないと思うのです。

死刑制度があるから、、極刑として、犯人の死を望んでしまうのではないのでしょうか。。

それとも、もしも日本に死刑制度がなかったとしても、、遺族は、犯人が死ぬまで、この世に存在しなくなるまで、やはりその死を望み続けるのでしょうか。。

ちょっとこの問題については自分はとてつもなく考えが浅すぎて、本書の感想を簡単に述べることができません。

友人S男との死刑制度についてのトークバトルも時間切れとなり、次回持ち越しとなってしまいましたし。。

もうすこしよく熟考を重ねて、この本の感想も兼ねて、死刑制度についての自分の考えは、何回かに分けて、記していきたいと思います。

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2008年12月17日 (水)

日本の呪い(感想の続き)

著者 小松和彦 光文社

本書は、呪い・祟りに対する祓いについても語られています。

特に死んだ人から呪われる(祟られる)ことを一番恐れたようです。死んだものを穢れと感じ、のちのち自分たちに祟らないように御霊という信仰(お彼岸のルーツ?)が考えだされたということです。お墓なども、どうしてあんなに重たい石の塊なのかというと、死人が出てこれないようにするため、、ということは(本書には書かれておりませんでしたが)どこかで耳にしたことがあります。

日本書紀のイザナギイザナミの話ですが、これはスティーブンキングのペットセメタリーのような話です。。

最愛の妻にもう一度会いたいと黄泉の国に会いに行くと妻のイザナミは既に腐敗して蛆が体に湧いていて、おどろいてイザナギは妻から逃げ出してしまいます。ペットセメタリーは、愛する息子によみがえってほしくて、ペットセメタリーに埋葬するが、よみがえってきた息子はまったく別の生き物になっていて。。というストーリーで。。黄泉の国へ旅立ったものは、もう戻ってきてはならない、、戻ってきてももう違う何か、に変わってしまっている。だから重たい墓石で蓋をする、、ということなのでしょうか?

前にも書いたことがありますが、やはりわたしはお墓に入れられるのは怖いとおもいます。できれば遺灰を小さな瓶や箱などに入れて、家族の近くに置いてもらいたいと思います。昔から、死んだ者は穢れた存在と考えられ(昔は衛生面で重要だったのかもしれませんが)、お墓は忌まわしいものを隔離する場所として作られたんだということ。お葬式などで、お清めの塩を撒くというのもそれに近い考えなのかもしれませんが、それってあんまりだし、愛がないなぁって気がします。

ただし、蛆が湧いた姿で恋人や愛する家族が戻ってこられたら、どんなに愛する相手でも100年の恋がいっぺんで冷めてしまうのではないでしょうか。。蛆が湧いていてもそれでも平気で手をつないで暮らせる。。という人がいたらそれはそれですでにどこか狂ってしまったとしか思えませんし。。つくづく、人の死というのは不思議な概念ですね。

今も、昔も、死体は、怖く、恐ろしく、忌み嫌われる、そんな存在だったのかもしれません。(とはいえ、亡くなった祖父や友人の死体は全く恐ろしくなどなく、、触ったり、抱きついても怖くもなんともなく、だだ、二度と話をしたりできない、目を開いてくれないそのことが悲しくて仕方がなかったのですが)。

とにかく、人は死を日常からできるだけ遠くへ隔離するような文化を築いてきました。しかしそこから、差別や、死刑制度などへの無関心がはじまったことも考えられます。日本の呪いを知ることは、さまざまな死についての無関心からの脱却のきっかけになるのでは、本書を読んで改めて感じました。

なんだか、思いがまとまらず、すごく長い感想になってしまいました。

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日本の呪い

著者 小松和彦 光文社

以前、著者の著作「異人論」の記事でもちらっと話ましたが、小松先生とはものすごく遠い昔、学生時代に一度お会いしたことがあります。その当時フリーで編集者の仕事をしていた(今年の2月に亡くなった)友人Yが、後学のためにと、小松先生との仕事の打ち合わせかなにかに同行させてもらったことがあります。

その後、一度もお会いしたことはありませんが、小松先生の博学ぶりに一度でファンになり、随分と著作を読みました。先日書棚の整理をしていて、本書が発掘されましたので、再読してみました。

本書のテーマは日本の呪いです。人はいろいろなことで、嫉妬したり、嫌ったり、根に持ったり、恨んだりして、挙句の果てには相手の不幸を願ってしまったりすることのある生き物なのではないでしょうか。そういった、人の不幸を望む感情、それが呪いです。

実際、人は人を呪ったり祟ったりするだけで、相手を不幸にすることが可能なのでしょうか?

一番思ったのはやはり、東京大空襲や原爆で住居や家族を失ったり、非業の死を遂げたり、、被曝などの後遺症で苦しんだ方々は原爆を落としたアメリカを呪ったり、祟ったりしたのでしょうかということです。

ひょっとしたら、ロサンゼルス大地震も、オクラホマの連邦ビル爆破事件も、9/11テロも、ハリケーンカトリーナも、スペースシャトルの爆発事故も、全て原爆や東京大空襲で非業の死をつげた人たちの祟りだったのかもしれません、、もちろん、証明できませんし、もし本当に祟りだとしたら、祟り方が弱すぎる気がします。。

そうなると、今度は阪神の大震災などの大地震、地下鉄サリン事件や、台風や洪水、ゲリラ豪雨、O-157、ノロウィルスの大流行などなどは、、パールハーバーやアジアや南方で日本兵に殺されたや人々の祟りなのでしょうか。。それにしては、やはり祟り方が弱い気がします。

この3年ほど、毎年、讃岐の金毘羅神社にお参りをしており(讃岐うどん屋めぐりのついでですが)、自分でも金毘羅さまの謎の中で、崇徳天皇のことを随分調べましたので、今回は、前回読んだときとは比較にならないほど、崇徳天皇の祟りについて興味津々で読み進んでしまいました。

だれかが自分を嫌っている、まして呪っていると知ったら、大抵はとても嫌な気持ちになるとおもいます。人は嫌だな、不愉快だなという気持ちになると、自律神経にすぐ影響がでるものです。この不快な気持ちが続けば、人は心身ともに病気になり、場合によっては死に至るかもしれません。。

そういった意味で、人は人を呪うことは可能といえば可能かとおもいます。

しかし、人が通常思い浮かぶ「呪い」とは、だれかが呪いたい相手をこっそり呪うことのように思います。しかし、こっそりやると、上記のように相手に直接は伝わらないので、自律神経を失調させることはできません。ですが、人は、超自然な出来事の方を呪いと受け取るようです。

例えば、古来より、人は天変地異とか、疫病などの厄災が起これば、それはだれかの祟り、呪いだと思うようです。

特に祟りで有名な崇徳天皇は保元の乱で弟の後白河天皇に破れ、、やがて憤死を遂げます。。その後京では保元の乱で敵対し、勝利した後白河天皇が病になったり、平清盛や貴人が変死を遂げたり、ハレー彗星が出現(偶然?)したり、大火が起こったりなど、次々を不穏な出来事がおこります。そして、これは崇徳天皇の祟りではないかということで、朝廷は、金毘羅神社と京都に鎮魂の社を建てたりして祟りを鎮めようとします。

その後も、なにか不吉なことが起こると、崇徳天皇の祟り?と恐れられ、600年後に、明治天皇が即位した際も、明治天皇は讃岐をお参りして、息災を祈ったというのですから、、凄いものすごい祟り方です。。

本書では、誰かに死んで欲しい、、誰かが不幸になって欲しい、、そんなことを考えると、呪いは成就するが、やがてその呪いは不幸となって自分に戻ってくるというような話が書かれておりました、、人を呪わば穴二つということです。

ですが、どうもこの祟りの応酬は平等に行ったり来たりしていないところが不思議なところです、、絶対的な権力者が犯した争いごと(保元の乱)で、結局、一番被害に会うのは、農民や子供などの弱者で。。

それは今の世でも一緒で、争いごと自体の理由が国民すべてによく浸透していないうちにはじまってしまう国家同士の争いごとで、まず最初に犠牲になるのが、弱い庶民や子供たちのようです。。(イラクで命を落とした子供たちは、アメリカの大統領がフセイン大統領が大量破壊兵器を隠し持っていると勘違いしたから死ぬことになったと知っていて死んでいったのでしょうか?自衛隊で後方支援をした日本人としてはやるせないかぎりで、、祟りというものが実在するとしたら、、このイラクで命を落とした子供たちには間違いなくアメリカと日本および参戦国は祟られるでしょう、、でも、この祟りが自衛隊派兵を反対していた国民や、家族、その子供たちに祟ってしまったら。。。)

。。。呪いというシステムが実際にあるとしても、、全ての呪いシステムはピンポンのように正しい相手にストライクするようには機能していないようなのです。つまり、壊れたシステムです、これは、、どこかでストップしなければ、、と思います。

ところで、話がちょっと逸れてしまいますが、先日ブッシュがイラク人の記者に靴を投げつけられてましたが、あれは明らかにブッシュに対する呪詛行為です。その後この記者はイラクでヒーロー扱いされており、イラク国民の大多数から、ブッシュが嫌われていることは明らかです。ブッシュは国民一丸から呪詛されてしまっているようです。

普通は自分が誰かから嫌われているとか、憎まれていると知ると、まず、不愉快な気持ちになり、自律神経に影響が出て、その後心身の体調不良が始まるのですが、、ブッシュの場合はそういうことはないのでしょうか。。その辺は今後のブッシュの体調がどうなるかで答えは出るかとおもいますが。。

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2008年12月10日 (水)

新宿駅最後の小さなお店ベルク

著者 井野朋也 P-Vine Books

ベルクは新宿駅東口近くにある小さなお店です。そんな老舗のお店だと知らずに利用したことが何度かあると思います。また今度行ってみようとおもいました。ルミネの強制的な立ち退きには断固戦って店を続けて欲しいと思いました。

それにしても、、ほぼ同時期に、陽性の気を読者に与える本書と、陰性の気を読者に与える赤木智弘の「若者を見殺しにする国」を読んでしまいました。

愚痴を言わずに問題点をひとつずつ着実に解決していく本書の著者やベルクのスタッフさんたちと、なにからなにまで不満と愚痴だらけで、社会の問題点ばかりを挙げて、ひとつも自分の問題点を解決しようと試みない後者の著者。。

ひょっとして、赤木氏はベルクの店員として人生のどこかの過程でこのお店に雇ってもらっていたら、違う人生が待っていたのかもしれません。

先日、自分の別の記事でも書いた気がするのですが、最近、また個人経営の商店や飲食店が増えてきていると感じます。

自分としては、チェーン店と個人経営の店が並んであったら、迷わず個人経営の店に入ります。

何度も通えば店主や店員とは顔見知りになり、裏メニューや、リクエストメニューも作ってくれたりします。

近くの商店街のおでんネタ屋さんはおでんのネタを買うと、オマケにさつまあげを入れてくれたりします。

やはりお気に入りの近くのパン屋さんは、サンドイッチを1個買っただけなのに、たまにオマケのパンを2個もつけてくれたりします。(買ったパンよりオマケのパンの合計が高いぞ。。)。そこのパン屋さんは開店が毎朝6時ですが、すでにお客さんが並んで待っているような美味しいパン屋さんです。(おじちゃんとおばちゃんがふたりでやっている変哲もない普通の町の小さなパン屋さんなのですが)。

贔屓のお豆腐屋さんのお豆腐は、腰のまがったおじいちゃんとおばぁちゃんがやっていますが、びっくりするほどおいしいのです。やっぱりときどきがんもをオマケしてくれたりします。。(オマケって素敵ですね)。

何十年も続く素敵な個人経営のお店が日本中どこにいっても同じ味で、訪れるたびに店員の顔が違うファーストフードのチェーン店に駆逐されるなんて、大規模スーパーや大手企業に閉店を余儀なくされるなんて、、納得いきません。

ベルクさん、そして味や品質にこだわって個人で経営を続けている小さなおみせやさんには心の底からエールを送りたいと思います。

久しぶりに日本人のど根性を体で感じる頼もしい本を読みました。

多くの人に読んで欲しいと思います。

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二十日鼠と人間

著者 ジョンスタインベック 新潮文庫

東金で起こった幼女の殺害事件で、本書のことが最初に思い浮かびました。。

遠い昔に読んだ本です。この本を読んだあと、あまりのストーリーの悲惨さに呆然として、悲しくて悲しくて、布団を被って号泣してことを覚えています。

本書は、アメリカの季節労働者の話です。知恵おくれのレニーと従兄弟のスリムの物語です。

レニーは動物が好きで、おっとりと優しい性格なのですが、知恵が遅れているのに力が人一倍強く、その力の加減がわからずに、トラブルばかり起こしてしまい、ひとつの職場にとどまることができません。

レニーの唯一の家族、従兄弟の聡明で既知に富んだスリムは、レニーを愛し、そしてレニーの世話をしながら生活をしています。トラブルばかり起こすレニーのために、職場を転々とする必要があるのです。

レニーはふさふさ、ふわふわしたウサギのような動物が大好きです。レニーとスリムは、働いてお金をためて、いつか自分たちの農園を持つことが夢です。そして自分たちの農園を持つことになったら、レニーはウサギの飼育を任せてもらうことになっているのです。

ところがある日、レニーは、ふわふわふさふさしたうさぎのような髪の毛を持つ大人の女性に出会ってしまいます。そしてレニーはそのふわふわの髪をただ触りたくて、触ろうとしてしまいます。事情を知らない女性はパニックしてしまいます。その女性のパニックでパニックを起こしてしまったレニーは、女性の首を折って殺してしまいます。

いままで、いろいろなレニーのトラブルをかばってきたスリムも、このときばかりはレニーをかばうことができませんでした。スリムは愛する、長い間世話をしてきた従兄弟のレニーの命をその手で奪うことで物語は完結します。

もしも冤罪ではなく、今逮捕されて、身柄を拘束されている容疑者が真犯人だったとしたら、このスタインベックの小説と同じ、とても痛ましい、悲痛な事件です。

何十年も前に読んだ小説なのに、殆どあらすじをおぼえています。それくらいやりきれない沈痛な小説だったのです。

ヤフーの掲示板では、「極刑だ、死刑だ」という意見が圧倒的ですが、精神障害は他人ごとではない病気です。自分の家族だって自分だっていつ何時障害を持ってしまうかもしれないのです。

山本譲司の「累犯障害者」でも語られていたと思いますが、法廷で、自分の犯した罪もわからず、「おかーさーん、おかーさん」と泣き叫び、小便をもらしても気がつかないような状態の人が、厳正な裁判も審査も受けられずに、次々と刑務所送りになってしまっているという事実が描かれていました。

福祉で対応すべき患者を、なんの対策もないまま、とりあえず刑務所に閉じ込めてしまう、今の日本はそういう国ということです。そして、ひょっとしたら犯した罪も認識できないほど重篤な障害者が死刑になってしまっているかもしれないのです。

スタインベックの「二十日鼠と人間」は1937年に出版された小説です。その当時のアメリカと全く変わらない悲惨な環境が今の日本で少なからず起こっているということに、衝撃とを覚えました。

障害のある子供たちの教育者(心理カウンセラー)として長い経験をもつトリイヘイデンは、教え子からレイプされかけたことを彼女の著書「檻の中の子」で告白しています。それでも彼女はその少年の世話を続けました。そして心を病んでいた少年を回復させています。

知的障害があったといわれる画家の山下清は放浪記で「大人の女性の裸より、小さな子供の裸を見ていたい」と書いています。また、理由のわからない男性特有の性的な生理現象では意味がよくわからず、かなり戸惑っていたことも描かれています。

伊丹十三の映画「静かな生活」はノーベル賞作家の大江健三郎の息子をモデルに、知的障害ある若者の暮らしを描いていましたが、やはり男性的な性的生理現象を家族の前で制御できないことが何度もあり、彼の家族は、もしも息子が無自覚のまま性犯罪を犯してしまったらどうなるのだろうと思う心の恐怖や葛藤を描いていました。

もしも、今回の容疑者が犯人だと確定したとしたら、被害に会われてしまったお子さんやお子さんの家族にとっては、憎んでも憎みきれない犯人だと思います。それは障害があろうがなかろうが全く関係ない憎むべき相手だというのが事実だと思います。

ですが、家族でも知人でもない赤の他人が、もしも、犯人に知的障害があり、自分の犯した罪を自覚できない、責任能力のない人物だとしたら、単純にその相手は憎むべきなのでしょうか。

「二十日鼠と人間」に登場する女性を無自覚に殺してしまった知的障害者レニーの従兄弟のスリムと同じ葛藤を持ち、この問題を自分や自分の家族の問題として真剣に考えるべきだと思いました。これから裁判員制度が導入されます。国民はここまで難しい案件にも裁判員として参加しなくてはならないのです。

罪を犯してしまう人の中には、凶悪で、こころの歪んだ犯人とは違う、自分や、自分の家族と同じように普通に暮らしていた善良な人たちがある日、なんらかの病気や障害によって自己の精神をコントロールする能力を失ってしまった人たちがいるのだということをもっとよく考えて欲しいと思うのです。

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2008年12月 9日 (火)

若者を見殺しにする国

著者 赤木智弘 双風舎

ちょうど一年前に出版されて、一部のブログや雑誌などでかなり話題になっていた本らしいので、いまごろ感想。。というのもかなり遅れているのかもしれませんが。読んでいろいろと考えさせられましたので感想を書こうと思います。

まず、読み進んで、最後までずっとこの著者に対して感じていたことは、この人は格好よくない尾崎豊だなぁ。でした。

尾崎豊は彼の生きた時代の10代の若者の持つ不安定で頼りない心の葛藤や大人の不理解への不満を「15の夜」や「17歳の地図」で歌という形にしてメッセージを送りました。

本書の著者も現代社会の若者の不安や不満(著者は31歳ということなので既に若者とは言えずどちらかといえば中年に近い年齢なのですが。。)をブログや本書で語ってきました。。

やがて尾崎豊はかつて自分を理解してくれないと戦ってきた当の大人になってしまい、己のメッセージと辻褄が合わなくなってしまいました。

本書の著者は読めば気がつきますが、かなり恵まれていると感じますし(自営業の健康な両親が居て、欲しいもの(高額のパソコンなど)も買ってもらっています。)。非正規雇用であることで、両親の老後の介護の問題を悩んでいるのならまだしも、現在自分を養ってくれている両親がもしも死んで収入がなくなったら、自分も飢え死にすると悩んでいます(子供にも親の扶養義務があるのですけど。。)。

また、年収150万円の自分と結婚してくれる人など絶対いないのだから、自分は不幸せだと何度も本書の中で訴えていますが。年収150万どころか、収入のない月もある売れない漫画家と結婚した友人もいますし、怪我や病気で就労不能な旦那さんのために、女で一人で家族をささえている友人や知人もいます。

旦那の年収など関係なく結婚している人などちょっと見回しても周りに結構いるのです。著書の論理は非合理的で、自己中心満載な悩みのオンパレードなのです。年収関係なく、人間性が浅いので、単にモテないだけなのでは?

知り合いの美容師さんは彼氏は無名のプロボクサーですが、100億積まれてもホ○エモンはタイプじゃないから絶対結婚したくない。稼ぎなくても今の彼が好きと行っています。

著者に足りないのは、チャンスでもお金でも正規雇用の職場でもなく、自分の最も近くにいる他者(家族や友人)への感謝や愛情が足りないんじゃないかなぁと思ってしまいました。

著書は、努力が嫌いと口では言っているわりには、ブログを執筆する上で、多くの文献を読んだり、セミナーに通うなど、実は結構な努力をしてるように見えます。

そして、本人はそれを努力と思わないかもしれませんが、努力ってそういうことなのでは?そして、実はその彼の努力は徐々に報われはじめているのではないでしょうか?彼はオンザジョブで経験値を増したいと書いてありましたが、この著者はすでにオンザジョブで経験値増してますし。。

いくら努力しても自分の時代に生まれた若者にはチャンスがなく、不公平だとさんざん不満を述べていた当の本人はすでに1年前とは全く違う立場になってしまいました(本書はすでに3版も増刷されているし、キノベスにもランクインしていたし、いろいろな雑誌などに寄稿もしているのだからかなり売れているのでしょう)彼の論理が破綻してしまったのです。

今後彼はどうするのだろうなぁと思います。きっと、本書を書いて反響を得たことにより、いろいろな人と出会い、会話して、いろいろなことを学んで、かなり心の豊かさを増して人として成長してしまったのではないでしょうか?ひょっとすると、そろそろ女性にもモテだしているのではないでしょうか?

そうだとすると、すでに、著書は「絶対に努力したくない・非モテ・非正規雇用・貧乏」なひとたちの不満を晴らすヒーローではなくなってしまい、逆に自分たちの生まれた世代は就労のチャンスが圧倒的不利だけれど、実際に自分は何がしたいのか強くイメージしたら、ひょっとしたら報われたりしてしまうかもよ、、という明るい希望の見本になってしまったのではないでしょうか?

それとも実は、いつまでも社会に無視されたままの、世の中の不合理さの代弁者のままでいたかったのでしょうか。

尾崎豊同様、彼は今ジレンマにいま立っているのではないでしょうか。それとも、尾崎豊のようなナイーブさはないのかな?

ある程度余裕のあるお金が手に入り、社会的に認められて、安定雇用者の立場になって、これでお嫁さんまで来てしまったりしたら、どうするのかな?これまであれほど憎んでいた安定雇用者としての幸せを満喫して、非安定雇用者に自分の椅子を奪われないように自分の椅子に執着するのかな?それとも、はい僕はいらないから、どうぞ、とその椅子を差し出すのかな?

さんざんいろいろなブログで本書については論争が巻き広げられているようですので、既に私の疑問にはどこかで答えが出ているのかもしれませんが。今回、自分が読んだ感想はこのようなものでした。

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2008年12月 3日 (水)

平等ゲーム

著者 桂望実 幻冬舎

瀬戸内海の孤島に全てが平等の島があるという、全ての決めごとは全島民の投票で決まり、仕事は4年ごとに抽選で変わるという理想郷を舞台にしたストーリー。

ゲームなんていうタイトルが着いているので、アレックスガーランドの「ビーチ」やゴールディングの「蝿の王」のように、最後は血みどろの殺し合いのような悲惨な結末が待ち受けているのかとおもったら、なんとか、本書は爽やかに結末を迎えました。

本書の理想郷はかなりご都合主義の理想郷なので??と思いましたが。

どちらかというと、平等のコミュニティというと、60年代にアメリカなどで流行したヒッピーが暮らすコミューンとか、、あとは特殊な宗教で結ばれたアーミッシュなどがイメージされますが、理想郷が成功するためには、ずるをしない、さぼらない、誰もが平等に力仕事や汚れ仕事や精密な仕事や、高度な技術が求められる仕事ををする必要がある、ということなのですが、実際は人間には能力が不平等に備わっていて、器用な人や、不器用な人もいるし、集中力が続く人もいれば、続かないひともいる、難しいことを覚えるのが得意な人も居れば、不得意な人も居る、単純な仕事を人から命令されたほうが安心する人もいれば、複雑な仕事を自分のやり方ですすめていくことが楽しいひともいる。。つまり、人間には能力に差があるのは当然。

この前提で、生活に格差を作らないようにすることが法(ルール)や政治なんじゃないかなぁと思っているのです。

実家で犬を二匹飼っているのですが、一匹はおとなしい性格で、もう一匹は積極的な性格です。おとなしい性格の犬の方が体の大きさは二倍もあるのに、もう一匹の犬が餌をよこどりしようと割り込むと、大きい方の犬は後ずさりをして餌をゆずってしまうのです。この場合、餌を食べられないのはゆずってしまう性格の犬の自己責任、、というわけにもいかないので、飼い主が介入して、もう一匹の犬に餌をとられないようにしてあげたりします。この飼い主の介入が人間社会でいう、法律や政治なのじゃないかなぁと思います。(もちろん弱肉強食の獣の世界では、餌を奪われてしまう方の犬は飢え死にしてしまうかもしれませんが、現代の文明社会では、ペットはすでに社会的存在として生存が守られているのです)。

能力ある人ばかりが、どんどん豊かに金持ちになって、能力をもたない人はどんどん貧乏になっていき、果ては命をつなぐ最低限の生活すらできなくなってしまうというのは、やはり正しい文明社会のありさまとは言えないような気がします。。

もちろん、人間に備わっている知恵や努力を最大限に使わずに、自らどんどん格差社会の底辺に落ち込んでしまう自業自得と言っても仕方の無い人たちも実際にいるのかもしれません。しかし、そもそも、格差社会の底辺に巻き込まれてしまった人たちの多くが、知恵を使う方法や努力する方法を学ぶ環境がなかったのかもしれないと文明社会と自負する政治家ならば真面目に考える必要があると思うのです。

現在、心無い大企業の経営者が一部の派遣社員に行っている非文明的な雇用の方法は、もともと他の犬のものだった餌を、横から割り込んで掠め取っているうちの実家の困ったチビ犬と脳みそのレベルが同じような気がするのです。

自由競争というのは、同じ程度の素質、同じ程度の能力の持ち主同士が切磋琢磨して腕を磨き競争に勝ち抜くことであって、もともとスタート地点が違ったり、自分より弱い者、持たない者と競争して、高い地位に立てたとしても、それは勝つということではまったくないと思うのです。

いろいろな政財界の方々の主張などを見ていますと、中にはちゃんとそのことがわかっていて、懸命に活動をされている方々もいるのですが、どうも最近の日本社会の表舞台に登場している政財界の方々は、うちの実家のチビ犬レベルの非文明ぶりで、日本を弱肉強食の石器時代にしたいのかと、そんな時代が来るころには、自分たちはもう鬼籍に入っているだろうから、関係ないとでも思っているのか、時々不思議に思ってしまいます。

本書に登場する理想郷の島は、もともとその設定が理想郷とは程遠いところで、説得力がなく、ご都合主義のストーリー展開ではあるのですが、色々な考えを整理することができ、読後感もさわやかな、なかなか良い一冊と思いました。

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2008年12月 1日 (月)

お役人のいじめ方

著者 後藤雄一 徳間書店

数年前のことです。都庁前のタクシー乗り場でタクシーに乗ろうとしたところ、「ここは都庁の職員のタクシーチケットがないと乗れないよ」とタクシードライバーに言われて乗車拒否にあったことがあります。理不尽な気持ちのまま、仕方なく、新宿駅前まで寒い中とぼとぼと歩いてタクシー乗り場の行列に並び、やっと乗ったタクシーに、その都庁前の行列の話をしたら、「もとはといえばタクシーチケットは自分らが払った税金、そんな客に自分のタクシーに乗って欲しくないからあたしはあの列には並ばないですよ」という男前のタクシー運転手さんの話を聞いて以来、、長いことこのタクシー乗車拒否事件に根に持っていたわたしは、それから、折に触れ、なにかタクシーチケットについての不正の情報がないかと、ネットで「都職員、タクシー、不正」というキーワードで検索を続けていたのですが。

今回、本書にたどり着きました。

不正、やはりあったようですね。本書の100ページから説明されていますが。章のタイトルは「タクシー券の私物化!?総額24億円」です。24億円は平成6年度の都庁全体のタクシーチケット購入金額だそうです。。もう驚きません。

それ以外にも、カラ会議、カラ出張、税金観光などなど、、区や都の無駄遣いを、たったひとりのパン屋さんが地道に調べ上げ、住民監査請求をし、裁判まで起こしてきた記録です。

同様のことは省庁でもおこなわれているのだろうな、ということが想像できてしまいます。

この本、有権者は必読かとおもいました。ですが、実は有権者の多くは読書とは程遠い層の方々が大半を占めています。おそらく、有権者のほとんどがテレビ大好きっ子です。そこで、是非とも、この本をどなたか、人気脚本家が、実話ということで有名タレント、人気アイドルを主役としてドラマ化すればいいのにね。と思ってしまいますが、そういうわけにはいかないのでしょう。大人の事情などがありそうです。

義憤を大衆に浸透させるには、哀しいことに、テレビ以外手段がないのですけれどね。。

現在、著者は都議として活躍されているようです

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2008年11月29日 (土)

狂気の偽装

著者 岩波 明 新潮文庫

本書は現役の精神科医が語る、自称「心の病」の人々についての考察です。

うつ病、自殺、リストカットなど、かつては家族の恥、社会の恥という認識が広くいきわたっており、発症者やその家族はその病気をひたかくしにしていた時代が長かったわけです。

ところが、今では社会がうつ病をはじめとして、心の病に寛容になり、自ら心の病をカミングアウトする人が増えてしまい、その中には、本当に心の病ではない人も含まれてしまうようになってしまったということです。

たしか三島由紀夫だったと思うのですが、人が狂気に至るにはある種の才能というか、運のようなものが必要で、選ばれた人のみがなれるもので、人はなりたくても簡単に狂人になれるわけではない、というようなことを書いてあるのをよんだことがあります。

これはたしかにそうで、嬉々として自分の精神疾患を語ることが出来る人は、かなり正気な人間で、ただ、幼稚で未熟な精神の持ち主かもしれませんが、実際の狂気の世界に足を踏み入れているとはおもえないです。

本当に心の病を患ってしまった人とその家族の苦悩を知らないのかもしれません。

うつ病、強迫神経症、躁鬱病、統合失調症などの患者が友人や家族にいる人はよくわかると思いますが、発病してしまうと、患者は今まで持っていた個性や人格と全く違う人物に変わってしまうのです。

寛容で思いやりがあった友人や家族が、突然疑り深く、我がままになり、周囲の人たちに対して無関心、無表情になり、まともな会話が通じなくなったします。

意味不明な妄想を毎回毎回会うたびに聞かされるようになります。

細やかで几帳面だった人が、突然生活がだらしなく、そして約束を簡単に破るようになり、そして責任を放棄するようになったりします。

公衆の面前で突然悲鳴を揚げて叫びはじめたりすることもあります。

そんな出来事に、近くに居る家族や友人は呆然とするばかりなのです。

なので、自分で「わたしうつ病にかかったから、休職するんだ~」とか「リストカットしたときの写真ですぅ~」なんて自慢話ができるような人は確かに心の病の偽装を疑ってもよいのかもしれません。

ところで、精神疾患の患者が犯罪を犯したときに、「精神の病だからって犯罪を犯したんだから罪は償うべき、死刑だ死刑だ」と簡単に言う人が結構多く存在しています。

自分の心(脳?)がまったく別の物質に乗っ取られて本来の人格ではない状態の時に犯してしまった犯罪について、心を乗っ取られている肉体がその犯罪の責任を負うべきなのかということを考えたことがないのだろうかといつも思います。

いつ誰が、ある日狂気に心を乗っ取られてしまうのかなんて、絶対わからないのです。

加害者の事情も知らない、しかも被害者でもない赤の他人のくせに、ことあるごとに「死刑だ死刑だ」と声高に叫んでいる当の本人がもしも突然心の病に体を乗っ取られ、訳もわからない状態で、犯罪を犯してしまい、死刑を宣告されてしまったら、どんなに恐ろしいことか想像できないのだろうかと思います。

特に精神が不安定で未熟な場合(主に思春期の子供など)は、いつ心の病にとりつかれてしまうかわかりません。

そう考えると、ちょっとくしゃみや咳が出ただけで「風邪かもしれない」と病院にかかるのと同じで、ちょっとく心がよくよしたり落ち込んだら、「うつかもしれない」とすぐ精神科に行くようになったというのは、本人の予防対策としては間違ってないのかもしれません。

心の病の偽装で患者が増えたことで、問題となっているのは、精神科医の労働時間や医療費がパンク寸前だということなのですから、みんなが精神科に殺到することで、人々の心が安心を得られて、社会全体として、犯罪が減り、自殺者も減るのだったら、道路やオリンピックや天下りの役人のために巨額の税金を使うかわりに医療費や教育費に税金を使ってもらうほうが国益になり、みんながハッピーになれるんじゃないかなぁとそんなことを考えてしまいました。

結果としては、インフルエンザの予防接種のように、うつ病もその他の精神疾患も、常日頃から予防することで、発病してしまったらかかってしまう多額の薬代や家族の負担も抑えられるような気がします。

(昔、精神科医の敷居が高かった時代は、そういうカウンセラーの役目を占い師やお寺のお坊さんがやっていたのかもしれません。占い師やお坊さんの中には立派な人もいると思いますが、胡散臭い人の方が多く、逆に発病に追い込まれてしまう可能性もあるとおもうので、精神科の敷居が低くなったことは決して悪いことではないような気がします)。

ただし、松本昭夫著の精神病棟の二十年にもかかれていましたが、自分の精神の未熟さを見極めて、心の病にとりつかれないように精神を強靭に鍛錬するという予防も確かに大切かと思いました。ただし、こころの弱さ、精神の未熟さというのは、鍛えれば必ず強くなったり強靭になったりするものではないところが、心の難しいところなのだと思います。人の心は生まれつき素材が鉄板だったり、生まれつき素材がベニヤ板だったりあるかもしれません。鍛えたら強くなる場合もありますが、鍛えると壊れてしまう場合もある、それが人の心なんじゃないかとおもいます。

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2008年11月27日 (木)

禽獣

都著者 川端康成 新潮文庫

火花を読んで俄かに川端康成の文学に興味がわき、読んでみることにしました。

本作品は、かなり奇妙なストーリーです。

動物が好きなようでいて、気に入らない動物は簡単に殺したり、可愛がっていても、死んでしまったら対して悲しむこともなく、興味をなくして捨ててしまったり、次の動物を探したりする。

かつて心中をしようとした娼婦に対しても、同じ感情を持っているのです。

犬の出産が特に大好きで、熱心に世話をするが、生まれてきた子犬について無頓着だったりします。

かなり短いストーリーで、この主人公がどういう人物なのかもあまりよく説明がされていません。

本書で語られる主人公の情報としては、

四十近い独身

二階建ての一戸建てに女中と二人で住んでいる

鳥と犬を買っているらしい

考えることは家で買っている動物のことと、動物をみて、ときどき昔つきあっていた女を思い出す

ということで、本人の名前さえ小説には登場しません。

昭和八年に書かれた小説ということですが、隣の家に住んでいたら、かなり薄気味の悪い人物のように思えます。

これはモデルがいるのでしょか。

川端康成がこのような小説を書いていたということをはじめて知りました。やはり自分の感性とは合わない作家のようではありますが、もう少し他の作品も読んでみたいと思います。

「橋のない川」を翻訳して外国で出版したら、ノーベル賞を取れるといわれた住井すえが、「川端康成が取れるような賞など欲しくない」というようなこと言ったと、どこかで読みましたが、、その理由がもうすこし読むと見えてくるのでしょうか。

北条民雄氏の作家活動を支えたのも、自分の商業的な成功のために利用できるのではないかといった計算づくがあったのではないかと、本書を読むと穿った考えが浮かんできてしまいます。

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2008年11月22日 (土)

火花

著者 高山文彦 角川文庫

「いのちの初夜」の作者、北条民雄の生涯を多くの資料、情報を集めて描いた一冊です。

ハンセン氏病という、つい近年までタブー扱いされ、政府主導で行っていた非人道的な差別について、日本国民として知る義務があると思いました。

平成に入っても一万人以上の患者、元患者がいたにもかかわらず、これまで私たちの目にふれることが殆どなかったのです。

最近では、街角や温泉施設で出会うことがあります。重症な方ですと、初対面にギョっとしてしまうこともありますが、そのギョっとする理由も、長い間の隔離が原因だと思います。

普通に生活をして、話をすれば、恐ろしくも怖くもない、同じ人間なのです。

戦前の、差別著しい時代(志賀直哉などは、ライ患者が書いた原稿を触っただけでライ病が染ると思い込み、逃げ出したという)に、北条民雄という才能のある作家を世に送り出すために、後ろ盾になって尽力した川端康成や編集者の小林茂のような人物がいたという、

まだ川端康成も編集者の小林氏も、ふたりとも30代前半だったことを思うと、当時の成熟した文明人の質の高さを知ることができます。現代の30代の青年が、おなじような態度をとることができるかと思うと疑問です。

本書を読み、これまでの川端康成観が180度変わりました。

「伊豆の踊り子」や「雪国」などあまったるい小説を書く、耽美主義者のように思っていたのですが、思い込みだったようです。改めて、先入観などなしに、川端康成の小説を読み返してみようと思ったのも、本書の影響です。

北条民雄という名前は、仮の名前ということもはじめてしりました。これは出身地や、本名を隠し、家族を差別から守るためにの行為ということです。ライ予防法が廃止された今になっても、本名が公開されないということは、未だに差別が残っているのかもしれません。(そういえば、数年前に宿泊を断って問題になった九州のホテルの事件がありました)

政府、権力が率先して行う差別ほど恐ろしいことはないという証明とおもいます。

この北条民雄が生きた時代について、このような記述がありました。

人々は(中略)慢性的不況に加え、金融恐慌のもとでやり場のない鬱積をこころに抱え込んでいた。町には失業者があふれ、就職難はいつになっても解消されず、「大学は出たけれど」「生まれてはみたけれど」という映画や流行語が人びとの口の端にのぼった。(中略)喜劇役者たちがナンセンスなドタバタ芝居を演じ、観客の皮をよじれさせた。

まるで、今の平成の世を説明しているような時代のなか、5・15事件、2・26事件がおこります。

そして、北条民雄が短い作家人生を終えて亡くなった直後に、日本は戦争の渦にまきこまれてしまいます。プロレタリア文学は徹底的に弾圧され、転向作家が続出する、そんな時代をだったのです。

本書は、命を削って生を病を描いた北条民雄が、著者高山氏を通じて訴える、現代の日本人がどのように生きるかを伝える、そんな一冊のように思いました。

本書をと、北条民雄はライ院の文学仲間と、日記を交換して、意見を戦いあわせたといいます。まるで昨今のブログで、他者とコメント欄で意見を戦い合わせるかのようです。自分と全く違う意見を聞くと、頭が洗われるようになると。

今の日本では、どのような思想をブログに発表しても、国家の権力で弾圧されることがないのだとしたら、北条民雄の時代よりは、かなりましな時代なのだと思います。

もっといろいろと感想が書けるとおもったのですが、本書の感想は言葉ではなかなか表すことができません。

多くの方に実際に読んで欲しいと思う一冊でした。

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2008年11月17日 (月)

円満退社

著者 江上剛 幻冬舎文庫

とある銀行の支店長の定年退職の日のストーリーです、あと1日なにも問題なければ三千万円の退職金が振り込まれる。。そしたら妻を捨ててメルトモの若い女性と駆け落ちしようなんて考えている。

ところが、朝から職員の失踪、不正融資、横領、金融庁の監査など、、つぎつぎとトラブルが発生し、まさか解雇で一円も退職金がもらえないかもしれない。。といったドタバタの物語、、大変面白く読み終えました。

昔から、欲しいものは貯金して、貯めてから買う主義。ローンやら分割などから全く縁が遠い一回払いの人生(なのでなかなか欲しい物は買えません)そのため、あまり銀行とは縁が無い人生です。

ですが、同級生や先輩に大手都市銀行に勤めている人が何人かいて、友人の結婚式のときに集まり、お互いの年収の教えあいをしたときに、その銀行員の友人の年収を聞いて、他の職業の全員が空しく落ち込んだ経験があるくらい銀行員はたしかにとっても給料が良いらしいです。

バブルがはじけて、中小企業はばたばたとリストラや倒産の憂き目にあっていても、彼ら大手銀行の職員は国の資金注入&ゼロ金利政策でなんとか今でも優雅に暮らしているようです。(逆に毎週のように行っていた大蔵省の接待などがなくなり、おかげで休日ゴルフがなくなり、個人顧客へのサービスを減らしたことで、残業も減って、その友人に限っての話ですが、以前より仕事は楽になったと言っていました)。昇進や昇給を望まず、無難に行員生活をまっとうできれば、比較的安泰な老後が待っているらしいです。。

でも。。それで大丈夫?といいう気もしてしまいします。

銀行の個人顧客への店頭サービスは明らかに20年前よりも大幅な悪化しています。銀行の窓口にいる行員はアルバイトレベルで、商品知識も、接客ノウハウも目も当てられません。スキルの低下が歴然なのです。

ここからは、銀行から話が逸れてしまいますが、以前は大型電気店などに行くと、その商品が好きで好きでたまらないといったマニアックな店員さんがいて、どんな質問にも即座に答えてくれて、本当に満足して、安心してその製品を買うことができましたが、今では商品について質問しても即答できない店員さんが多く、「しばらくお待ちください」と言い残して消えてしまい、ずーっと待たされて、挙句の果てやってきた別の店員は商品のマニュアルを取り出してえーっと、なんて悩みながら説明なんて場面にも良く出くわします。

これって、社員を使い捨てして、ショップの製品の専門家を育てるような商売を小売店がしなくなってしまったからなんでしょう。

八百屋さんも、魚屋さんも、肉屋さんも、カメラ屋さんも、銀行員も、プロフェッショナルがどこにもいなくなってしまった世の中って怖い気がします。。すべてが入れ替え可能なマニュアルのコンビニエンスな社会になってしまうのでしょうか。。

これでは、労働者が自信を持って、働く意欲がどんどん失われていくのがわかる気がします。

ベテランを育てて雇うのにはお金も時間もかかる。。だからどんな新人でも最低レベルで働けるようなマニュアルを作って最低賃金で働かせる。。顧客満足度はどんどん下がる。。

何かがおかしい。。最近はちょっとずつ国民も気がついてきたようです。。大型チェーン店に混じって、個人経営のショップや食堂が町に復活してきたような気もします。。コンビニエンスの時代から、またプロ、職人の時代にゆりもどしがおこっているのでしょうか?でも、銀行が貸し渋りをするようでは、、やる気のある個人経営者が育つはずもありません。

経済のど素人の自分にも、うっすらと経済の仕組みや成り立ちをイメージさせてくれる、そんな一冊でした。その他のこの作者の本も読んでみたいと思いました。

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2008年11月14日 (金)

グッドラックららばい

著者 平安寿子 講談社文庫

著者はアンタイラーの作品を読んで作家をめざし、そしてas tyler (?) ということでペンネームをこの名前にしたとのことです。

アンタイラーを目標にしている作家ということで、前から気になっていたのですが、先日、古本屋で105円で売っていたので試しに購入して読んでみることにしました。

アンタイラーは佳作です。新刊がなかなか出なません。なので、アンタイラーのような作家が他にもいるのなら、こんな嬉しい話はない、ということでワクワク感を抱きながら本書を読みました。

そして、、読後感。。う~ん。。う~ん。。違う、、違うんですよ~全く違うんですよ。

親子・夫婦・そして家族のトラブル、家族の家出、物語の年月の長さ、などなど、アンタイラーの小説によく登場する要素はほとんど全部揃っていて(そういえば伴侶や兄弟や子供の突然の死ってキーワードはなかったな?)、本作品はアンタイラーの「歳月のはしご」をモチーフとしているのだろうなってのは判るのですが。。なんなんでしょう、この消化不良感。

アンタイラーの作品もほとんど全てが家族の物語です。

そして家族同士の心のすれちがいや行き違いでどうしても分かり合えない家族が登場します。家族同士で傷つけあったり、こんなつもりではないのに、なんでこんなことになっちゃったんだろうという悩んだりするそんな家族が山ほどでてくるのですが。。アンタイラーの小説に出てくる家族たちは基本的に自分よりも、自分以外の家族のことが気になって気になって仕方がない登場人物なのです。そして、アンタイラーの小説を読み終わったあとには、なんともいえない優しい、温かい余韻が残るのです。。

ですが、この作品は全く逆なのす、、読み終わったあとに、、冷たく、寂しい、暗澹とした余韻がのこるのです。。登場人物は家族という名前で呼ばれていますが、それぞれが見ている対象は自分自身だけです、何年何十年と時間が経とうが、この一家は、自分以外の存在を全く気にしていないのです。。読み進めば読み進むほど、襟元から背中に冷たい氷でも入れられてしまったかのような寒々しい空しさに包まれてしまうのです。。

アンタイラーの小説に登場する登場人物がとても配他的で、誰かに理解して欲しいとか、わかって欲しいとか、逆に相手を理解したい、とか、判りたくて判りたくて仕方が無いという、そんな登場人物ばかりなのに対して、この作品の登場人物はほとんど全員が自己愛的なのです。。アンタイラーのファンなのにどういう心理状態でこのような小説を書くようになったのか、作者の意図がよくわかりません。

小説としては、登場人物それぞれのストーリーが次から次へとてんこ盛りで、娯楽小説として飽きることなく楽しめました。ただ、下世話な話がかなり多くて、その辺もちょっと鼻につきましたが、もともと男性誌にでも連載されていたのでしょうか?(講談社だから週刊現代あたりに掲載されていたのかな?)。

とはいえ、他の作品も読んでみたいなと思える筆致の冴える優れた作家だと思いました。ただし、アンタイラーを求めるとかなりがっかりすること間違いないです。

というわけで、昨日は原宿のブックオフに彼女の他の作品を買いにいこうと店まで行ったところ。。店がない?たしかこのあたりに大きなブックオフがあったはずなのに。。跡形もなくなくなっていました。。

本日ネットで調べたところ、去年の9月に閉店していたのですね。。あんな良い立地にあったのに、儲からなかったのですね?原宿を訪れる若者は活字なんて読まないのかなぁ。

一行日記:贔屓の力士こと出島関が九州場所でなんと6連勝で無敗といううれしいニュースにちょっとご機嫌。(同じ部屋の雅山も6連勝で、武蔵川部屋コンビが大活躍なのです)。

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2008年11月10日 (月)

ミスター・ヴァーティゴ

著者 ポールオースター 新潮文庫

空を飛ぶ子供だった少年ウォルトの生涯を描いたおとぎ話というのでしょうか、ピカレスクとでもいうのでしょうか、とても新しい、なのに懐かしいそんな作品です。

舞台は大恐慌直前の1920年代のアメリカからスタートする近代の物語なのに、まるでアラビアンナイトの物語を読んでいるかのような、そんな不思議な感覚が味わえる非常に面白いストーリーでした。

空飛ぶ少年ウォルト・ザ・ワンダーボーイことウォルトの周りに現れる登場人物はポーランド出身の魔法使いのような謎の人物イェフーディ師匠、騎兵隊に一族を皆殺しにされたネイティブアメリカンのマザースー、農場に捨てられて瀕死の状態だったところをイェッフーディ師匠に拾われた黒人のイソップは優れたイェール大学がすべての費用を負担すると申し出をされるほどの頭脳の持ち主、イェフーディ師匠が恋する魅惑の女性ウィザースプーン、などなど魅力的な人物が次々と登場するのです。

つらく苦しい空を飛ぶための修行時代、クークラックスクランの襲撃で友人のイソップとマザースーをリンチで虐殺されてしまう恐ろしい体験、、空飛ぶ少年としての興行の成功、身代金目的のために誘拐され、やがて空飛ぶ能力を失い、師匠の死にも立ち会うことになる、その後はカジノやナイトクラブでのギャングで仲間との華やかな放蕩時代、、などなど、、物語は10歳の少年ウォルトがおじいさんになるまで落ち着くことなく続いていきます。。

これがアメリカ人の精神世界なのよ、と日本人には理解不能なアメリカの脳内回路を垣間見ることまで出来てしまう、とてもとても不可思議な、それでいて、なんだかこの世界を自分も知っている、そんな感触を味わいながら、一気に読み進んでしまう、とにもかくにも素晴らしい作品でした。

読み終わってしまったのが惜しいくらいの、久しぶりに、優れた創作を読んだなぁとそんな感想です。

ポールオースター、、凄い作家が日本に紹介されはじめたことを嬉しく思います。アメリカという国は実に奥が深い国なのですね。

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2008年11月 5日 (水)

聖者は海に還る

著者 山田宗樹 幻冬舎文庫

猫を殺したりと異常行動を起こす子供に催眠(トランス)療法を施し、邪悪な部分を眠らせる処置を施したマッドサイエンティスト(セラピスト?)が巻き起こす悲劇を描いた小説です。

人と人は全ての心を共有することできません。

仲のよい友だちでも、親でも、家族でも、恋人でもそれは一緒だと思います。

本書は、自分の心さえすべてを理解している人などいないのに、他人の心の全てを理解することは不可能であるというテーマだと思いました。

相手に対して、この部分は理解できるし、よく知っている部分だけれど、頭の中の本人しか知らない部分や理解できない部分もある必ずあるということ、そういうことをお互いに認め合って、そうして人間の信頼関係が結ばれるのかとおもいます。

自分が理解できない相手をやみくもに排除したり、または、力ずくで理解可能な人間に改造したり、そんなことはたとえ神だとしても行ってはならない行為だと思うのです。

もしもすべての人間がはじめからすべて同じで、ひとつの思考、ひとつの言動、ひとつの行動で動くことを神様が人間に望んでいるのだとしたら、最初からそういう(昆虫のような)人間をつくればよかった筈で、そのような仕組みに人間は出来ていないということからも、右よりだったり左よりだったり過激で暴力的だったり、平和主義で非暴力的だったり、清貧だったり貪欲だったり、そんなお互い同士、理解は不能だと思うけれども、でも相手が大切と思っている何かが、自分とは違うけれども、尊重してあげられて、全くわからないけど、でもOK、愛することも信頼することもできる、受け入れ可能、それが人間の人間たる所以なのかなと思います。

そういった意味で、理解可能な人間のみと烏合して生きるよりも、理解不能な人間をどのようにして受け入れて共存するかが、人間に与えられたミッションなのかもしれません。

ただし、猫の腹を平気で引き裂く人間や幼児を平気で虐待できる人間をどのように受け入れるか。。これは物理的には専門家におまかせし、書物や資料で推し量り、そのような人間もこの世にはいるのだ、と受け入れるしかないでしょうか。。

自国民・自分の信仰する宗教の信者以外はすべて異教徒でスパイで敵だと考える原理主義者の人間をどのように受け入れるか。。これも難しいです。。へたに仲良くなろうと試みて接近すると殺されるので、、遠く離れた場所で近寄らないように彼らを受け入れるというのがよろしいかと思います。

理解不能の「13日の金曜日」のジェイソンのような相手が、自分の住居にやってきて襲ってきたらどうするか。。話が通用しない昆虫のような相手をどうしたらよいのか。。これは平和主義者・反戦主義者のジレンマでしょう。。

やはりすぐ近くまできて襲って来たら。。まずは出来るだけ遠くへ逃げ隠れたいですが、本当に恐怖を覚えたら、家にあって身を守れそうな武器で応戦するかもしれません。多分この時点で戦闘力の差であっさり殺されるてしまうでしょうけれど。。それでもやはり、今の自分はたとえ相手が理解不能のジェイソンでも、原理主義者で異教徒を殺しまくっている人々でも、原爆やクラスター爆弾で八つ裂きにしてもよいとはやはり思うことができません。

こう単純に考えても、平和って夢のような言葉なんですね。でも、これは、ミッションというよりも、人間に出された永遠の宿題のような気もします。

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2008年11月 4日 (火)

獄窓記

著者 山本譲司 ポプラ社

帚木蓬生著の「閉鎖病棟」、松本昭夫著の「精神病棟の二十年」など読むにつれ感じていました。

日本という国が、精神病患者や身体障害者、知的障害者や犯罪者などに対するタブー視してきたこと。おそらく無関心故の無知からくる忌憚といった人権意識の低い風土について(ハンセン病で差別されてきた多くの患者の悲劇を描いた北條民雄著の「いのちの初夜」を読んでもそれがわかります)など、、常々心痛めて来ましたが、本書は現在でも面々と続く日本という国の人権の低さをあらためて検証する貴重な一冊かと思います。

犯罪者は即厳罰、即死刑などと簡単に口にしてしまう、他者配慮をすることのない風潮がまかり通っている昨今、本書がどのような話題になっているかどうかが気になります。

この人権意識の低さは、国民の多くが自分は差別する側で、差別される側には決してならないという前提があるようにも思えます。

ですが、少なくても、人間は誰しも年老いて、そして体も記憶も弱っていきます。痴呆になるかもしれません、痴呆になったからといっても、馬鹿にされたり暴力をふるわれたりしたら哀しい、悔しいということは判るのです。いつか自分が人権蹂躙をされるかもしれない、そう自分のこととして日本という国の人権を考えることからはじめたら、人権の大切さをもう少し理解してもらえるかもしれません。

本書ですが、導入部分については、著者がまだ筆が慣れていないためか、多少自己弁護をするような部分が多く、また知性を誇示するかのような難しい熟語や単語を多様しており、幅広い読者に読んでもらう必要がある内容の本書を遠ざける結果になってしまっておりはしないかと、少し心配になりました。ですが、作家としての初めての本としては秀逸と思いました。刑務所の寮内工場という、一般の国民にはなじみのない世界をわかりやすく、問題点を取り上げながら描いた本書は、とても素晴らしい作品だったと思います。

是非多くの人に読んでいただきたいと思います。

現在、著者は介護、福祉の世界で奮闘されておられるといいます。

祖母が重篤な痴呆で長く入院生活を過ごしており、オムツや嘔吐の片付け、排泄の世話、常に体を清潔に保っていただいている看護婦さんや介護士さんやヘルパーさんにはいつも頭が下がる思いで感謝しています。

つくづく、何故、綺麗な服を着て下手な唄をうたったり、軽薄なお笑いでテレビで騒いでいるだけのアイドルや芸人より、介護士さんの給料が安いのか全く理解できません。どちらも国民を癒しているのですから、是非ともアイドルのギャラやCDやコンサートのチケットには介護士の給与のための課税を(できれば50%くらい)していただきたいと思ってやみません。

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2008年11月 1日 (土)

失踪症候群

著者 貫井徳郎 双葉文庫

謎の失踪者の捜査をする警察の裏組織の話。

なのですが、事件の真相が戸籍の附表・住民票追跡で発覚してしまう。

これは夜逃げした人物を探偵や消費者金融が追跡するときに最初に行う定石作業なので(たしかナニワ金融のドラマでもやっていたと思います)。

新しい戸籍を失踪のために交換しても無意味だと思うのですが。。失踪者する若者たちの世間知らずや短絡さ加減が悲惨な結末を迎えるそんな小説だったのかとおもいました。

安易に行った脱法行為には、思わぬ落とし穴や恐怖が待っているそんなことがいいたい小説だったのでしょうか。

それにしても、あまりに練れておらず、結末も親子の和解がそらぞらしい、安っぽさで完結してしまった小説でした。

時間つぶしに古本屋等で100円ワゴンで発見したら買いかもしれません。

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2008年10月30日 (木)

累犯障害者

著者 山本譲司 新潮社

本書は公設秘書給与不正詐取の罪で実刑を受けた元国会議員の著者が、服役中に出会った累犯障害者の現状にふれ、福祉が行き届かず不幸にして犯罪を犯してしまう障害者の問題について実例を交えて真摯に詳しく語っています。必読の一冊です。

著者のようなまともに、庶民の実生活の問題に取り組む人物が政治の世界からはじきだされて、庶民の実態とはかけ離れた貴族のような人物ばかりが政治家になっていくこの日本は住井すえの「橋のない川」の時代、100年前から文化的に一歩も進歩せずに、むしろ後退しているなぁと思いました。

人間とほかの獣との違いは、文明だと思っていました。

文明とは、暴力を使わない、争そって傷つかない方法を考える、人は動物と違い、競争では勝ち負けは決められないということを知り、いろいろな能力の、いろいろな主義主張の人間が、強い能力や腕力や知力を持っている人々と平等に安心して暮らす方法を考えることかと思っていました。

お金儲けの方法を考えて、悪知恵と時にはコネや暴力も駆使して出来るだけ沢山のお金を手に入れることができた人間だけが、安全で安心した場所で生活ができるが、お金儲けなどに興味はない、大きな家にも綺麗な服にも、権力にも興味がない、誰とも争いたくない、平和な、安全な場所で、ただ最低限の衣食足りる程度に働いて、あとは雲をみて、ぽかんと暮らしたい、それだけなのに、そういう考えの人間は安全な場所に住むこともできない、そして強い人間に虐げられて、人権も蹂躙される、日本はそんな国ではないはずです。(よく、曽野綾子がアフリカの貧困国では競争に勝てない人間は死が待っています、日本人は甘えているのです、なんて言っていますが、良く考えてください。どっちの国が文明的ですか?人が甘えていても生きていける国、それは素晴らしい国ではないのでしょうか?)

最近の文明的ではない野蛮な発言をした例として、大阪府知事の橋本徹氏の発言があります。

彼は私立高校の助成金の問題について、高校生(子供)に対して、「日本は弱肉強食の世界です、すべてが競争です。教育よりも道路が大切です、お金がなければ公立高校に行けばいい、公立高校に行く能力がないなら義務教育ではないのだから高校にいかなければいい。それがいやなら日本から出て行ってください」というような内容の無慈悲な発言を涙まで流して抗議する高校生相手に繰り返していて、驚きました。

日本はそんな国ではないはずです。

いつから一介の府知事が勝手に子供を日本から強制退去できる国になってしまったのでしょうか。

この橋本氏のニュースを聞いて、昔、大学時代に家庭教師として勉強をみていたGちゃんを思い出しました。

彼女は中学1年生で通信簿は「オール1」でした。割り算どころか足し算引き算もできないし、アルファベットも知らない。

決して知的障害者ではない、話は通じるし、すべての生活行動をひとりでキチンとできる。ですが、どこかでオチこぼれてしまった。そもそも学習する方法を知らずに育った子供だったのです。

家庭環境が悪く、ほとんどネグレクトの両親を持っていました。家庭教師というよりは、それこそ乳母代わりに雇用されたのかと思えるほど、勉強以外の学校の相談も常時乗り、彼女の学校の日々の出来事に耳を傾けたりしました。

家庭教師として契約していた時間外の課外授業がほとんどでした。そんな家庭教師役を彼女が中学を卒業するまで約2年間続けました。

3年間、相変わらず勉強はさっぱりでしたが、でも、勉強は嬉々としてやっていました。計算問題や、アルファベットの書き取りも好きでした。覚えることに喜びを感じ始めていたのかもしれません。

彼女と出会ったころいわゆる彼女はヤンキー少女でした。喧嘩や夜遊び、暴走族との付き合い、校内でも暴力的で反社会的な行動ばかりを繰り返していたようです。ですが、わたしと勉強中は反抗的な態度もなく、、精神的にも落ち着いていた様に見えました。

あるとき、学校の先生が彼女に対して「卒業させてやるから学校にこなくていい」と言ったことがあります。彼女は勉強はできなくても学校は好きだから学校に行きたいと私に相談してきました。親はネグレクトなので相談できません。結局わたしは学校に抗議の電話をして彼女の担任と話をしたこともあります。「教育原論も読んだこともない、親でもない一介の大学生が教育に口出しするな」と一蹴されてしまいました。

それでもなんとか彼女は学校に通い、卒業し、無事私立の女子高に入学しました。結局中退して夜間高校に通うことにしたと連絡が届いたきり、彼女の消息が途絶えてしまいました。

わたしは、かつては教師になりたいと思っていた時代がありましたが、たった一人の少女もまともに教育できなかった自分には教師になる資格はないと思い、結局教職取得自体を諦めてしまいました。

数年後、20歳になった彼女から電話がありました。車の免許を取ったから乗せてあげるという連絡でした。最後に彼女にあってから数年立っていたと思います。

ひさしぶりにあった彼女は尖ってツッパッていたころのキツイ表情はなくなり、可愛い女の子に成長していました。彼女は車の免許が取れるくらい、通常の知能の持ち主だったことも証明されました。そしてかつて親身にしてくれた大人に恩義も感じることもできるまともな子供だったことも証明されました。

わたしは彼女にもっといろいろなことをしてあげられたかもしれないのに何もできなかったという後ろめたい気持ちで過ごしていたので、この連絡に驚き、また嬉しかったです。

橋本徹は学力テストで子供たちの何を判断しようとしているのでしょうか。

学校の教育を知りたいのだったら、大阪府の全ての子供たち一人一人と、最低でも数ヶ月は一緒に暮らして、テストの点数が悪いのは、怠け者なのか、能力がないのか、障害があるのか、悩み事があるからなのか、初等教育の段階で家庭環境などの補助が得られず、学習というそもそもの方法を覚えることができなかったのか、または日教組が悪いのか、一人一人の子供たちを知ってから判断していただきたいとおもいます。

橋本氏の競争とは恵まれた環境で生まれ育ちたっぷりと愛情と教育をそそがれた能力のある子供、もしくは類まれない反骨精神の持ち主vsその他という競争です。これで教育はOKというのでは、こどもたちの格差は簡単に広がってしまいます。彼のこの高校生との対談を聞いて、はっきりいって、ごつん、とゲンコツをしたいのは、あなたですよ、本当にもう、と思いました。

教育は競争ではないのです、オリンピックでもありません。子供たちが健全に学ぶ環境は大人が責任を持つものだと思います。

7人も子供がいるのに、どうしてそんなこともわからないのか疑問でしょうがありません。

トリイヘイデンの「シーラという子」をはじめ、彼女の著書を数多く読んでいて、家庭環境や障害などの問題のある児童が貧困や犯罪者の人生に導かれていってしまう事実を知っていました。このような問題が日本にもたくさんあるのだろうと不安に思っていましたが、現実に具体的に知ってしまうと、やはり呆然と、やるせない思いで一杯です。

本書の内容を読むにつれ、山本譲司氏のお子さんは父親のことを誇りに思っていることでしょう。(ただし、あまりにクリーンで潔癖で正論ばかりを言う父親は思春期の男の子にとっては煙たいかもしれませんね、実際の山本氏は実はいいところもわるいところもある人情味溢れる人物であり続けて欲しいと思いました)。

本書を読むと、、この日本はどんな未来に向っているのか、、真面目に国民ひとりひとりが政治に関心をもつべき、最終ゴングがなってしまったように思います。

「わたしの指図に従わないなら日本から出て行ってください」。。もしかしたら、自分が選挙で選んだ政治家からそんなこと言われる日がくるかもしれないんですよ。

いや、出て行きたくないです。日本で生まれ日本で生まれ育ったのですから。。

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2008年10月28日 (火)

イラク、米軍脱走兵、真実の告発

著者ジョシュア・キー 合同出版

本書の原題は「The Deserter’s Tale」です。

先日ボリスヴィアンのLe déserteur(脱走兵)の歌詞を読み、曲を聴いたばかりでしたので。今月は脱走兵に縁がある月だなぁと思いました。

とにかく、反戦主義(戦争はダメ)・好戦主義(戦争は必要)どちらの主義主張を問わず、一度本書を真面目に読んで欲しい。そんな一冊です。

大抵の戦争・紛争は、実質的な争いごとの発端(戦争をしたい、戦争をしようと思った)当の張本人と、実際に戦場で戦う戦士がまず100%の確率で一致していないので、わたしは、現在のほぼすべての戦争を否定します。

もしもブッシュや小泉がご自分のリアルその手でにっくきフセインのクビに縄をかけ、ご自分の手で留置所に案内し、取調べをして、拘束し、そしてご自分の手でフセインを殺害する、それくらいのことをしていたら。。ふーむと考えたかもしれません。

ですが、歴史をなんど巻き戻して再実行しても、ブッシュも小泉も自分のその手でフセインを拘束し、そしてフセインの首を絞めるなんてことはしなかったでしょう(ふたりともお坊ちゃんなので。。いえいえ、小泉元首相は日本国民の香田さんが自分の言動の結果空しく虐殺されたことを気にもとめずに平気でボーリングで遊んでいるご気楽な様子ですので。。ひょぅとしたらフセインの絞殺は彼だったら嬉々として自分のそのふたつの手で行ったかもしれませんね。)

アメリカのイラク戦争を全面的に支持して、国連決議を無視して自衛隊を派兵して戦争に加担した日本人は、本書で語られるイラク市民への殺害、略奪、人権蹂躙、暴行に間接的に加担をしてしまったことになるのですから、心して読まなければならないとおもいます。NHKの特集でも著者のインタビューを取り上げたということですが、いかにアメリカのイラク戦争がまちがった戦争だったかが本書でよく理解できるとおもいます。

わたしの好きな山下清も良心的兵役回避者だったと思います。

まともな人間は良心に反する戦闘からは離脱してもよいと思います。それが結果的に自国を守れないとしても、自国の起こした戦闘が良心的に間違ってると思う戦闘だったら回避することにどのような問題があるのでしょうか?

作者は、現在脱走兵として、米国政府から犯罪者として追われており、カナダに潜伏して、難民認定を求める裁判を継続しているとのことです。まだ若い青年とその家族が、このように心身ともに不安定な情況に追い詰められる、アメリカの理想というのはいったいどうしたことなのか、理不尽に思いました。

ボリスビアンは、「大統領閣下、人の血を流したいならご自分でどうぞ。」と唄っています。

本書で著者は、100万のアメリカ兵がひとりのこらず良心的兵役拒否をしたならば、ブッシュ大統領、あなたは自らイラクに出かけ、生命の危険の保障のない危険な地域でテロリスト容疑者の家に爆弾をしかけ、夜襲をかけて、家宅捜索し、罪もない家族や子供を拉致したり虐待したりするのでしょうか。あなたはそんな役目をご自分で請け負うのでしょうか。。と問いかけています。

余談ですが。ちょうど先日みかけたテレビ番組で、ゴルバチョフ元大統領がイラク戦争はまちがっていると発言していましたが、そのわりには小泉元首相を評価するような発言もしており???ん、ゴルビーちゃんとわかってるのかな、それとも、放映した番組が勝手に吹き替えしているか?って疑問に思うような場面がありました。

本書は、とにもかくにも、是非一読していただきたい一冊です。

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2008年10月25日 (土)

アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない

著者 町山智浩 文藝春秋

この本はアメリカの話なのですが、読んでいると日本の話なのではないかと肌寒い思いがします。

■ほとんどの国民が政治・経済に無関心で頑なに保守的。

■一部の特定な宗教の狂信的な信者が選挙での有権者として政治団体を支えている、政教分離に一致して無いと騒がれてはいるが無視。

■国民の政治・経済に対する無関心をよいことに、党に献金する大企業優遇政策を邁進し、それと引き換えに、公的年金や公的健康保険を民営化しようともくろむ。民営化してしまえばすべて自己責任となる。でも有権者には自由な競争は国民を豊かにするのだと嘘をついて強引に民営化にシフトしてしまう。

■ヒロシマ・ナガサキと聞いてなにを思い出す?「柔道」とこたえる(日本人の若者も最近ではヒロシマ・ナガサキに原爆が落ちたことを知らない若者が増えたというので笑えない話です)。

以上は本書で語られるアメリカの話ですが、これだけ読むと、日本の話かと思ってしまいます。

本書のタイトルで、アメリカ人はニューヨークの場所を知らないといいますが、日本人だって日本地図を見て、東京を指せ、と言われたら神奈川や埼玉を指す人結構いるんじゃないでしょうか。なので、本書のタイトルはちょっとアメリカ人に失礼なキャッチーなタイトルな気がしました。

また、本書でアメリカ人はイラクの場所も正確に指せないなんてことも言っていましたが、これもアメリカ人に限った話ではないと思います。おそらく自衛隊を派兵した日本人の半分以上がアフガニスタンの場所もイラクの場所も指せないのでは?

本書を読むと、アメリカは私たちが頭に思い描く自由とポップの国を享受できるのは一握りの金持ちだけの特権で、一般の国民は古い因習とがちがちの価値観、政府の強力な権力が支配する恐怖の国に生きているということ。国民に対する支配体制は旧ソ連のようではあるが、社会保障や金融規制だけは自由主義で貧困や無教育を放置という、権力者や大金持ちだけが都合の良い奴隷容認の専制国家のようになってしまったように思えます。

ですが。。今後もアメリカは変わらない、、なぜかというと国民のほとんどがニュースも新聞も見ない、政治にも経済にも今後も興味を持つ事がないから。そして、現実は違っても自由とポップの国だと信じて生きている。どうしてこんなに生活が苦しいのか、ひょっとしたら政治が悪いのではないかと思うけど、でも深く考えるのは面倒。。そんな状態が続くかぎりは、アメリカは変わらないし、、日本も変わらない。。ますますの暗黒時代へまっしぐらなのだと思います。

この本を読むと、今のアメリカはゴールディングのリアル「蝿の王」状態だなぁと思いました。

本書はアメリカではなく、日本を知るために必読の書かと思いました。

以前アメリカ人の友人に確かめたことがあり、そのこともこのブログで書いたのですが。友人の話では、アメリカはかなり不自由な国だと言っていました。

(後記)この記事でアメリカは変わらないと書きましたが。民主党オバマ氏が大統領に当選しました。アメリカはひょっとすると変わるかもしれません。ニューデールのような公共事業を拡大し、政府が介入して、大企業や金持ち優遇の政策とは正反対の政策を取るようです。大改革です。言動がこれまでのブッシュと全く異なりクレーバーな様子が伝わってきます。このクレーバーさが真に国民の利益につながってくれることを願います。これまでアメリカ追従の新自由主義を謳歌してきた日本の大企業には不利でしょうし、石原都知事はそうコメントしておりましたね。アメリカの圧力団体不利の政策に乗り出した大統領が過去に暗殺されてきた歴史を考えると。。彼には、無事に就任してもらい、どのような手腕でアメリカを変革するのかを是非見てみたいと思いました。

これまでは、ブッシュと日本の首相・閣僚の知能レベルは同程度だったのでなんとかアメリカと話が通じていたとおもいますが、これから、オバマ大統領の時代になると、日本の閣僚の馬鹿がバレバレになってしまいます。今後は日本ももうすこしクレーバーな首相・閣僚でないと、アメリカ政府と対等な会話ができないのでは。。なんて少し心配です。(それとも、実は日本政府の閣僚は歴史に残る最優秀の閣僚ぞろいだが、出る釘は打たれるため、うつけのふりを信長ばりにして諸外国どころか国民までもだまして現在、虎視耽々とはなにか謀略をめぐらしているのでしょうか)

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崩れる

著者 貫井徳郎 集英社文庫

夫婦の危機をミステリー形式で描いた短編小説なのです。働かない夫。ひきこもりの息子。育児ノイローゼの妻。浮気をする夫。婚活中の男。婚約中の男女。などなどが登場します。

実際にも夫や妻の殺人やら、ストーカー殺人やらDVやら、幼児虐待やら、現実に日常的にニュースをにぎわしているのですから、どの夫婦もみんな円満に暮らしているというわけではないのでしょう。外側からは円満そうに見えても実はどろどろ。。ということもあるのかもしれません

ですが、アンタイラーの「結婚のアマチュア」や「ブリージングレッスン」が物語るように、起承転結では説明できない、それが夫婦や家族のストーリーな気がします。

夫婦や家族の問題というのはそもそも短編で描ける素材ではないのでは?それが本書の感想でした。

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2008年10月22日 (水)

地獄のドバイ

著者 峯山政宏 採図社

本書は、急速に発展する豊かなドバイで一旗あげようとなんのリサーチもせずにドバイに乗り込み、結果ドバイの裏社会でひどい目にあった若者の回想録です。

華やかな都会に憧れて、「おら東京さ行くだ~スターになるだ~」と都会に来たものの、仕事はない、あったとしても劣悪な肉体労働で周りにいるのは荒くれ者ばかり。。次第にやさぐれて。。選ぶみちはこのまま落ちていくか。。故郷にかえるか。。というストーリーに似ています。

なぜこの本を手にしたかというと、ドバイ周辺のアフリカや中近東には紛争で安全に暮らせないひとたちや、飢えている子供たちがごまんといるはずなのに、、どういう精神構造で世界一の高層ビルやらショッピングモールやら動物園やらを立てているのだろうという疑問を持ったからです。それでネットやらでいろいろ検索していたところ、この本を知り購入しました。

中世じゃあるまいし、建物の大きさで国威を掲揚するというのもなんだかピントがずれていると思いました。。アメリカ式、ディズニーランド式を取り入れたのでしょうか?イスラム国家がアメリカ式導入?っていうのも不思議なことですが成金ってそもそもあんまり文化的じゃないのかもしれません。(成金の家って、変な仏像やら甲冑やら掛け軸やら壺があったかと思うと、猫足のロココ調家具があったり、豪華なシャンデリアがあったり、、高いものなら何でも揃えようって、何がしたいのかわからなくなっている場合が多い。。)

本当の豊かさってなんだか違うような気がしました。

国内に人権をおびやかされたり、飢えたりする人が一人もいないクリーンで安全な国家を築いたっていうなら素晴らしく立派でさすがイスラム教徒の人々は素晴らしい国づくりをしたな~って思えるのですが。。なぜ貧しい外国人労働者を(しかも同じイスラム教徒の人々を)最低の環境で最低の賃金でこきつかってエヘンっ高いビル見てって威張っていられるのかがとても謎でした。

本書に登場するのは、アラブ首長国連邦のドバイとアブダビです。特に著者が地獄を見たのはドバイではなくアブダビなのですが、そうはいってもひとつの連邦で行われている劣悪な人権侵害を日本にリアルに紹介した本はそうはないとおもいますので、一読する価値はあるかもしれません。但し、著者の滞在期間的も短く、内容も個人的な内容ですのでおそらく偏りがあるとは思います。が、本当に帰ってこられてよかったね、というのが読後の第一の感想でした。

日本も80年代のバブル時代には都庁やら副都心の高層ビルに常にクレーンが乗っかっていましたし。つい最近でも臨海高層マンションブームや東京ミッドタウンやら、新宿コクーンビルなんて矢継ぎ早に立っているので、日本だって相変わらず成金のバベルの塔合戦しているのかもしれません。。しかもおそらくは、低賃金の安い労働者をこき使って使い捨てて建設しているのでしょう。。だからドバイの現状は他山の石として学ぶべきだと思います。。

本書では、ドバイの刑務所にくらべれば、日本の刑務所ははるかによくて天国のようだと書いてありましたがが、、最近では民営化された刑務所もあり、、これから景気が悪くなればどうなるかわかりません、、コムスンのようになるかもしれません。

現在著者は政治活動をされているようです。

若さゆえの無謀な行為も地獄を見た原因ではありますが、この経験を活かして、日本での低所得者や外国人労働者の人権蹂躙という理不尽な搾取による資本家(成金)の横暴などに疑問を呈して、世界に誇れる国家というのは、立派な道路や空港や巨大なビルを建てて高級な暮らしをすることではなくて、人権や平和や安全や教育を大切にしている、高級な精神で国民みんなが豊かに暮らせるそんな国のことなんだよって言える、政治を行っていただきたいと思いました。

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2008年10月13日 (月)

魔王の感想の続き

伊坂幸太郎の「魔王」の感想の続きです

隣の家の人から自分ちが荒らされた時、お父さんは、確かに、「我が家に何するんだ」って乗り込んでいくべきだけど(中略)それは正しいと思うんだけど、その時に、そのお父さん自身は何もしないで、奥さんとか子供たちに、「行け、戦ってこい!」って言うのはどうかと思わない?

私が小泉政治が何故嫌いだったのかなぁというのを本書ですごく簡単に説明していました。

小泉政治は全体主義だったのでしょうか?

たとえば、どの角度から見ても、殺されてしまうほどの落ち度はなかった(イラクで人質となった)日本国民の香田さんを見殺しにしても国家の利益が大事とした小泉政治と、その当時の小泉政権の支持に走った大衆の発想はたしかに全体主義のムードだったと思います。この発想は民主主義とは程遠い政治だったと思います。

このように、一方では全体主義を謳っていたにもかかわらず、国民の痛みを伴う改革といっていたけれど、その国民の中に、一部の企業や資本家や政治家は含まれておらず、痛みどころか快楽を伴う改革であって、国民全員の痛みではなかったことがまるっと明らかになった今となってはこのだめなお父さんぶりがくっきりしています。

平和に楽しく暮らしていた我が家に隣人が侵入してきて、好き勝手に自宅や庭を荒そうしたとき時に、そこの主であるお父さんが「何するんだ」と隣の家に文句をいうのは当たり前なわけで。場合によってバットやゴルフクラブで威嚇したりして、無礼者に対抗するのは間違っていないと思います。

この考えには誰もが納得できるし、軍隊や自衛隊はここでいうバットやゴルフクラブだと考えても良いと思います。

でも、、なにかがおかしい。。つまり小泉政権のやったことは子供や奥さんに武器をわたして、ほら、戦って来いと言っているような、そういうことなのではないかと。。

たとえば、小泉が支持したブッシュのイラクを攻撃にしても。このふたりは個人的には全く痛みを伴っていないような気がします。痛みを伴ったのは志願兵になる以外に生活の糧を得られない若く、立場の弱い兵隊さんやその家族だけでした。兵士に武器を渡して(しかもその武器も自腹ではなく税金で自分の関係する(自分が儲かる)大企業から調達し)、自分に火の粉が飛んでこない遠い場所に立って、それこそ奥さんや子供たちの後ろにかくれて「やっちゃえやっちゃえ!」と命令するお父さんと同じようなことをしていただけなのでは?

小泉・ブッシュの政治はなにからなにまでこんな感じだった気がします。

家庭のお父さんにたとえると、ブッシュも小泉もすごく情けないだめおやじじゃないですか。。そして結果的にはダメおやじの家は経済的に破綻し、家族は崩壊して、当のお父さんは責任もとらずにあちこちから借金した挙句にカネを持ち逃げして失踪。。?

そんなダメお父さんとには見切りをつけて、新しいお父さんに期待したいと思っても無理はないかと思います。(ただ、家族(国民)はお父さん(政治家)に頼りきりというのがまずそもそもの問題で、一家の問題は家族みんなで真剣に考えないとね。。という教訓も含まれているのかもしれません)

そうそう、石原都知事もこのダメお父さんの部類に入る気がします。

お金のない都民は山谷に安宿があるからそこに泊まれと都知事はいいました。

ですが、そういう本人はドヤ街で暮らしたことがあるのでしょうか?

個室ビデオがファッションだと言う根拠は何なのでしょうか。実際にしばらく泊まってみたのでしょうか。

都庁の職員にも居酒屋タクシーチケットで遠方の自宅に帰宅させるのではなく、終電過ぎまで残業したなら、山谷のドヤにとまりなさいと。。指示してください。またはホテルのように豪華な都庁内に寝袋で寝泊りしたほうが個室ビデオに宿泊するよりよほど快適かと思います。(夜間は展望ルームを職員の仮眠室にでもすれば夜景も綺麗な豪華な宿泊施設となることでしょう)。

総務省の調査によると、平成19年都庁職員のタクシーチケット使用額は4億1478万円。

この調査では詳しい内容はわかりません、もっと厳密に調査してもらって、本当にギリギリで使用しているのか証明してもらってから、山谷発言をしていただきたいと思いました。

都知事自身は絶対ドヤに泊まるつもりがないくせに、言うは易しでは困ります。

ダメ父さんの見本の一人ではないでしょうか。

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2008年10月 8日 (水)

魔王

著者 伊坂幸太郎 講談社文庫

2004年に描かれた小説とは思えない預言の書でしょうか?

または、まともに政治経済を理解していれば、このような予測は簡単なのでしょうか。

それにしても、最近の社会情勢を元にかかれた小説と勘違いするほど、タイムリーな文庫化かとおもいました。

例えば

正面に座る婦人が、新聞の朝刊を開いている。一面の見出しに目をやると、「世論調査、与党支持率低下」とあった。横には「失業率史上最悪を更新」という記事もある。

とか

 原油価格が高騰したことも原因のひとつだが、輸入している野菜に未知の病原菌が発見され、そのために食品業界や外食産業が大打撃を受けていることも影響していた

本書は革新野党が選挙で大勝して、与党になるストーリーが描かれています。大勝する党の党首はカリスマ的であり、国民は熱狂して彼に投票します。この小説に描かれているその様子や過程が、小泉氏のカリスマ的な国民人気に便乗して、自民党が大勝した、郵政選挙の時を彷彿とさせているのです(自民党は与党で、小説の野党とは多少相違はありますが)。郵政解散は2005年8月、投票日は9月で、この小説が刊行された2004年、おそらく執筆はもうすこし前のはずですので、ずっと後の出来事ということが驚きでした。

その当時に、この小説がもうすこし多くの国民の手に渡り、国民の目を通っていたなら、空虚で中身のないカリスマ代議士に、尋常ではない盲信で投票してしまった国民ももう少し抑えることができたかもしれません。

本書では、「考えろ」と何度も啓発しています。

すこしでも、さまざまな人の意見を聞き、そして、さまざまな資料を調べ、そして自分でもよく考えて、好きとか面白いとか、テレビに出ているからとかという理由ではなく、この人間に政治を任せたら自分の人生はこの先どうなるのかをじっくり、よく考えることが出来たかもしれません。

そうはいえ、人はだれでも信じたいものを信じるものかもしれません。

なのでどのような言葉も何かを盲信中の人間には聞こえないのかもしれません。そうだとすると、どれだけ警告を発しても、流れは変えることができず、歴史の結果は一緒だったのかなとも思えます。でも、実際の歴史では、、日本国民はそこまで馬鹿ではなかったことは、参議院選挙の結果で明白です、、この馬鹿ではない日本国民の脳の働きが郵政選挙前にも起こっていたら。。どうだったのでしょうか?

それにしても、自民党は大相撲と似ているなぁ、、と思います。この体質は、日本人の感性に結構合ってしまううのかもしれません。

一部の利権団体以外の、自民党が与党となっても全く利益を享受しない、どう考えても不利益しか蒙らない国民の多くが自民党を支持している事実は、汚職と、不正と、八百長疑惑があるのはわかっているけど、だけどなんだか憎めない、結局騙されているだとても、長いこと贔屓にしているからやっぱり自民党に投票してしまうんだよなぁ。。って、、自民党タニマチは国民の二割ぐらいは常にいるのかなぁ。。と。。

自民党ファンも、大相撲ファンも、同様に贔屓の相手にはかなり甘い体質だと思います。(わたしは自民党ファンではないですが、大相撲ファンなので自民党ファンの気持ちもわからないではない)。

でも、子育てと一緒で、「何があってもあなたが好きだから」という理由で、盲目的に相手を支持ていては(何をやっても許していたら)、子供がスポイルされてしまうように、自民党も大相撲協会も、いつまでも、汚職と、不正と、八百長が許されると思い続けてしまい、結果的に、自分が贔屓にしている、大好きな自民党や大相撲が日本から消滅してしまうかもしれません。

贔屓の自民党や、大相撲を日本に生き残させるためには、体質改善と、初心に戻る、名前に恥じない体質改善を行う必要があると思います。(あれれ、、またもや読書感想文から話が逸脱してしまいました)

どうも考えが先走り、うまく文章がまとまりません。。

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2008年10月 6日 (月)

街場の現代思想

著者 内田 樹 文藝春秋

大学教授で有名ブロガーで売れっ子作家なようなのですが、今まで全然知りませんでしたが、本屋の平積み効果でまた購入してしまいました。

本書は論理の表現に小難しい言葉を使っていないので、言いたいことがすっきりわかりますが、断定的な物言いが多く、、、論理的に説明しているように見えるので、相手にそうかな?ではなくそうなんだ。って錯覚させる文章の持って行き方がちょっと気になりました。

本書に書かれている哲学も、ひとつの意見というか、考え方なのだと思いますが。。。。だから、、、なのです。ということで、教科書のようになっていて、でもよく読むと理屈の部分は(誰が決めてそうなったのっていう部分があったりするのです)。

たとえば。。といってすらすらと例をあげたいのですが、ちょっと面倒なので今回はやめておきますが。。すごくもっともらしくて、ウンウンと思えてしまう論理には疑ってかかってしまう悪い癖があるので、著者の他の本なども比較して、どうしてそう思うのかはゆっくり考えたいとおもいました。

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2008年10月 3日 (金)

慟哭

著者 佐々木隆三 講談社文庫

あの事件からもう10年以上も経っているのですね。。

あの年の自分はとある資格試験で猛勉強をしていて、勉強時間は出社前と退社後の寝るまで。。という日々でした。毎朝始発電車にのり、職場近くのファーストフードに6時過ぎに着いて、朝食がてら勉強していたので、事件当日も丸の内線に乗っていたのですが、まったく時間がズレていて無事でした。

でも、もしあの年に資格試験の勉強をしていなくて、通常の通勤タイムに通勤していたら、被害を受けていたかもしれなかった、と本書を読んで、震えがきました。

あの年は、新聞もテレビも、ラジオも、神戸の震災とオウムの事件のニュースばかりだった気がします。

そして、10年以上も時が経ったのに、事件がまったく解決していないというのも恐ろしいです。

本書は、サリンの実行犯のひとり林郁夫を中心にして描かれた小説です。真面目で優秀で信心深い医者として社会的にも信頼されていたのに、なぜこのような狂気の渦にまきこまれてしまったのでしょうか。

宗教とは一体なんなのでしょうか。

遠い昔、中学生の頃だったとおもいますが、そのころから(手塚治虫などの影響で)結構宗教に興味があり、聖書だの、こども向けの仏教の解説書などを読んでいたのですが、すごく疑問に思ったのが、聖書に書いてある良いおこないのことも、お釈迦様のいう良いおこないも、普通のあたりまえのことで、べつにイエス様に言われなくても、お釈迦様に言われなくても、人としてあたりまえのことで、神様に見られているから、とか罰があたるからとか、守らなければならない、のではなく、自分が決めて行えばいいのではないか?という疑問でした。

なので、キリスト教の信者や、仏教の信者などいろいろな宗教の信者さんは、わざわざ信者として宗教に入信しなければ、この聖書に書いてあることや、仏典に書いてある善行は行わないのかと、実際の信者がいたら聞いてみたいと思いました。

まぁ、善行にも初心者とエキスパートがいて、宗教に入門すると急行でエキスパートになれるとか、呪文をたくさん覚えるといろいろな修行をスキップできるとか、いろいろな特典があるのかもしれませんが、天国にいけるから、とか、極楽にいけるからとか、自分と家族が不幸にならないために、とか、お金持ちになれますように、とか、病気が治りますようにとか、なんらかのご褒美(ご利益)のために、宗教を頼るのは、その時点で宗教の本質から外れていて(煩悩ぎらぎらで解脱から遠のいていくだけではないでしょうか?)それが不思議でなりませんでした。

そこで、たまたま中学校の夏休みに、自宅にとある宗教の勧誘にきたお兄さんに上記の質問をなげつけたところ、、そのお兄さんは「その理屈は一理あるけれども、でも違う」みたいなことを言い出して、即答はまったくしてくれず、、「その答えは入信したら判る」なんてことをいいました。

わたしは「そんなの、駄目ジャン」と子供心に宗教に失望しました。

今でも神様や仏様の存在は信じていますが、宗教については信頼できないの原点はこのあたりからスタートしています。

神様も仏様もそこにいて見ててよ、自分の判断した良心に従ってやってみるから、だから放っておいてもいいし、助けたかったら助けてくれてもいいというスタンスです。

どこかの宗教団体に属してお経を唱えて奉仕活動をしてお布施を収めるなんてことは、実際のお釈迦様もイエス様もその他もろもろの神様もだれも望んでいない気がするのです。

教祖の松本智津夫も、もともとは、相手がこういうことが言って欲しいんだろうなということが地直感的にわかる聞き上手のおじさんだったのだとおもいます。(カウンセラーや占い師になったら結構儲かっていたかもしれません)。

その能力を悪用したことで道を誤ってしまいましたが、どうして彼の近くにいた親しい誰もが、使い道を間違えはじめた時に「その能力は使い方が違うよ」って指摘できなかったのでしょうか。

この誰もが持っているわけではない能力を、良いことに使えばまったく違う大物になれたかもしれないのに、結局最低な小者で終わってしまったのです。(ただ、大抵の詐欺師はその人を信用させる能力や言動を嘘で固めるための莫大な労力を他のことに使わないの。。?という人が多いので根っからの詐欺師、人をだますことが生きがいだったのかもしれません。。)

愛国主義にしても、資本主義にしても、マルクス主義にしても、アイドル、カリスマに対しても、狂信になってしまうこと、それは危険なことだと思います。

つねに自分の信じているものは自分の良心と照らしあわせて、正しいものなのか、もともとは良心に即していたのに、ある日暴走しはじめたらどんなに大好きなアイドルやカリスマにもNoと言って軌道修正をする努力をする、または自分の信念を変える、など、自分はひょっとして何かを狂信していないかを常にチェックしないと、林郁夫のように、後悔の慟哭をする日がきてしまうかもしれないのです。どのような盲信もやめたほうがよいのです。本書はその参考になるかもしれません。

ただし、自分の夫、妻、父、母、子供、おじいちゃん、おばあちゃん、恋人、親友は辻褄が合わない言動があっても、世界中で最後まで信用する、味方でいる。これは宗教ではなく愛だと思います。。このような盲信はありだとおもっています。(ただし、暴力を受けるなど生命、身体の危機が訪れた場合は、いくら相手を信用していても逃げ出す準備はしたほうがよいとおもいます。暴力が出ても信用するとなると、愛よりも宗教です。愛国心という時につかう愛も同様に暴力や強要が出たら愛とは言えないので、盲信はせずにそこからは逃げ出したほうがよいと思います。)

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2008年9月29日 (月)

ムーン・パレス

著者ポールオースター 新潮文庫

本書、某有名古本屋で100円(定価740円)で売っていました。

オースターの名前を見つけて即買してしまいました。

このような素晴らしい本を100円で売ってしまう古本屋があるなんて驚きです。私としてはとてもお買い得だったのですが、この本を古本屋に売り渡した読者と100円で売っている本屋の店員はちゃんとこの本を読んで価値を決めたのかとても疑問に思ってしまいました。(ただ、作品中に生活に困って蔵書を売り渡すシーンが登場しますので、読者も同様に切羽つまって泣く泣く売り渡したのかもしれません)。

本書はこれまでの淡々としたスタイリッシュなオースター作品よりも、もう少し人間味があふれる、ストーリー性のある小説でした、ジョナサンキャロルを読んだときと印象が被る部分もありました。登場人物たちの不思議な縁がちょっと幻想的で夢物語のようにも感じられました。

冒頭で主人公が伯父さんから譲り受けた大量の書籍の入った箱を組み合わせてテーブルや椅子、ベッドなどの家具にしていたが、生活に困り読み終えた本を切り売りした話は作者の実話らしいです。

主人公の伯父さんの正業はクラリネット奏者なのですが、世の中には音楽以外にもいろいろなことがあることを知っていて、実際いろいろあるために、忙しくてもなにか他のことを絶えず夢見てしまう伯父さんにとても共感してしまいました。

伯父さんは、クラリネットの演奏の練習をしていると。。チェスが気になり、チェスの研究をしていると、ひいきの野球チームの成績が気になり、球場に出かけていくと、読みかけのシェークスピアの脇役のことが気になり、、家に帰って本を読み始めるとしばらくしてクラリネットの練習がしたくなる。。という、、集中力がなく、どらもこれもが中途半端で、どれもこれも上達せずに挫折した人生の足跡がごちゃごちゃと残っているそんな伯父さん。。

なんだか自分の人生を語られているようで、同じような人が世の中にきっと沢山いるんだろうな。。というか、こういうタイプのほうが絶対的に多いのではないか?と思うと、情けなくも安心してしまったりしました。

それでも主人公にとって伯父さんはは愛すべき、最愛の人だったわけで、伯父さんもそのことをわかっていたし、きっとちょくちょく挫折はあったけど、甥に愛されていることに喜びを感じていたんだろうなぁ。。そんなことを思いました。

主人公も青春の挫折を味わいます。でも、彼のそんな失敗も挫折も喜びも絶望も、この小説の中で、彼に起こったすべての出来事がきらきらと輝いていました。

どんな人生だって、実はきらきら輝いているんだな。。そんなことを教えてくれる一冊でした。

小説の中ほどで、第二次大戦中に日本に原爆を落とす計画の訓練をしていることを知って気が狂ってしまったチャーリーという人物が出てきます。

戦争だからと、平気で人を殺せる人間がいる一方で、まだ行っていない、これから自分が行うはずの殺戮を想像しただけでも気が狂ってしまうそんな人間もいた。

それは、日本でも、アメリカでも、同じだったのでしょうし。今でも同じなのでしょう。

何度もじっくりと読んで味わいたい小説だと思いました。

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2008年9月23日 (火)

大相撲九月場所 

20日の秋場所に国技館に行って来ました。

ちょうど後ろの座席に子供づれで観戦にきている一家がいたのですが、5歳前後とおぼしき子供3人の応援っぷりがすごかったです。

「朝赤龍~関脇なんかに負けるなー」(このときは安馬戦)。。ううむ。。対戦相手の番付まで知りつくして応援しているよ、この子。。。おそるべし。。しかも人気の高い安馬ではなく、朝赤龍をひいきにするちびっこマニア。。

朝青龍戦でも、対戦相手の、比較的マイナーな栃乃洋を応援しているし。。「がんばれ、、がんばれ栃乃洋!!朝青龍をやっつけろー」てな応援ですよ~。。もちろん、朝青龍は横綱ですから。。前頭四枚目の栃乃洋にはあぶなげなく勝ちましたが。。

相撲協会がどうの。。外人力士の品格がどうの。。ではないです。。

相撲取りは子供たちの憧れなのです。

そのことを力士ひとりひとりが、よく自覚して。。格好よい、憧れのお相撲さんでいてくれればそれでよいのです。

この日の白龍・把瑠都戦は、大相撲らしい名勝負でした。。白龍、相撲界のイチローのようです。。どの取り組みも、こんな相撲だったら、相撲の将来は明るいとおもいました。

今場所は稀勢の里がいまひとつ調子悪いのですが。。亡き友人が一番ひいきにしていた力士ですので、もうすこし頑張って欲しいと思います。

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2008年9月19日 (金)

黒い家

著者 貴志祐介 角川ホラー文庫

この小説は1997年刊行の本です。

先週の土曜日に古本屋でなんの気なしに、たまたま100円で入手しました。

10年前に描かれた作品、しかも新人作家の作品なのですが。優れています。

非常にお買い得です、、、作者には定価を払いたいと思うくらいの面白い作品でした。この本を100円で売ってはイカンでしょ。。

本書は、発刊当時は大ベストセラーで映画化もされたそうです。最近韓国でリメイクされて、今月は韓国版のDVDも発売されたという話題作のようですが、いままで読んでなかったんですね。。これが。。

この時期に、この本を入手したのなかなかタイムリーだと思いました。

というのも、リーマンブラザーズの破綻、およびAIGグループの危機騒動のまっただなかで読むことになったことです。。この小説は10年前にこういう警告をしていたのです。

生命保険とは何だろう。(中略)日本の良好な治安と貯蓄好きで勤勉な国民性にマッチしたことで、世界一の加入率を達成したシステム。(中略)だが、それもすでに過ぎ去った夢になりつつある。

日本の社会全体が現在アメリカで進行しているような巨大なモラルの崩壊に直面しているからだ。精神的な価値を軽視し金がすべてという風潮。思考力や想像力の衰退。社会的弱者にたいする思いやりの欠如。。

すでに10年前に新人作家が、日本に警鐘を鳴らしていたのに、、だれも見向きもしなかったということです。。(いえ、見向いていた人も多くいたのです、ベストセラー&映画化にまでなった作品なのですから。。でも、多額(巨額)を投じた結局テレビ、マスコミの洗脳力には勝てませんでした)。

それでも、この小説は一貫して性善説です。心のない人間などいないと主人公の恋人が力説し、、やがて主人公もその説を信じようとします。。

わたしも、その説にとても共感できます。

拝金主義に走ったり、権力に夢中になる人は、やはりなにか心に重大なコンプレクスを抱えてる可能性が高いと思えるのです。

この本も、あえて、、選挙の前に一読すべき一冊と思いました

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2008年9月16日 (火)

ルポ 貧困大国アメリカ

著者 堤未果 岩波新書

自己責任、この発想を国家(アメリカ)が持った時、数々の不幸がはじまりました。

「国民の命に関わる部分を民間に委託するのは間違いです。国家が国民に責任を持つべきエリアを民営化させては絶対にいけなかったのです」

耐震偽装をはじめ、日本でも思い当たることが数多くあると思います。公共性の高い事業は決して営利目的にすべきではない、貧しい人も、富める人も同じように利益を享受できるべきだと思います。医療、教育、ライフライン、防犯などがそれに当たると思います。

テロ支援や自衛隊海外派遣や年金、医療費問題などを討議する前に、是非とも国会でマイケルムーア監督の映画「シッコ」上映と合わせてこの本を資料として取り上げて議員全員に読んでみて欲しいと思いました。

たとえば、国会中継中にこの映画を上映するということで、、全ての議員さんも強制的にこの映画を見ることになるでしょうし、NHKで国会中継中に放映するということで、貧富の格差・医療問題・国際紛争・教育制度が全て密接に絡み合っているのだということが、そうした問題に無関心、または知らされていない国民にも美味く伝わるのではないかと思えました。

どんな利権に塗れた悪徳議員さんたちだって、日本という国が可愛くないわけではないと思うのです。この映画を観れば、日本の危機的状況が理解できるのではないでしょうか。

麻生さんは「中負担にするから中福祉で満足して欲しい」なんて言ってましたが、国民全員が高福祉を受けられるのでしたら、高負担でも問題ないと思うのですが?(大体貧しい国民は既に充分高負担なのですけどね。。それがわからない人ばかりが総理候補というのが日本という国の危機的状況だと思います)

小池百合子に至っては、「わたしが総理になったらアラブの王女様を説得して日本のエコ製品に投資させる」などと嬉しそうに女性週刊誌で語っていました。

ここまで国内の格差が深刻になっているのに、根本的な対策などまるで考えずに、世界中のお金のあるところからお金をひっぱってくる、、という商売人のような発想です。

本来なら、総理はすべての国民がどうすれば豊かに暮らせるかを考える立場の人間で、そのために、国民の労働の対価が正しく社会に還元していることを実感でき誇りを持って仕事に従事できている。、、そして国民が人生を通して習得した知恵や技術を次の世代に伝えていると実感できているか。またこの国は安全だと感じて暮らしているかをよく見極め、そして不完全な部分を完全に実現するのが総理の役目だと思うのですが、、

彼女の発想は日本株式会社の社長の発想です。国民はみんな社員で、能率の悪いもの、能力のないものはリストラ。。(自己責任という名のもとに)

小泉改革の名のもとにはじまったアメリカ式自己責任社会がどれだけ精神の荒んだ、文明からかけ離れた国家となってしまったかを知るためにも、選挙の前にすこしでも多くの国民に是非とも本書および、マイケルムーア監督の「シッコ」をお薦めしたいと思います。

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スパイダー

著者 パトリックマグラア 早川書房

父親が母親を殺した過去を主人公が語るというストーリーと思わせながら、、実はその主人公は精神病院にいて、母親を殺したのは実は主人公で、語られたストーリーはすべて主人公の妄想だった(でも実は妄想ではなく妄想の方が実話かもという含みはもたせている)というオチ

うーん、セバスチャン・フィツェックの「治療島」もそうでしたが、、読者が混乱するのでこういう手法の小説はできればやめていただきたい。

それならそうと、芥川龍之介の「河童」のように、これはとある精神病患者の話と前置きしてもらいたいな、なんて思いました。

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2008年9月 9日 (火)

人形になる

著者 矢口敦子 徳間書店

萩尾望都が絶賛していたので、購入してしまいました(最近帯びにつられることが多いです)。

「人形になる」と「二重螺旋をこえて」の二つの作品が収録されています。

「人形になる」は、なるほど、ストーリーが大変漫画っぽい。ちょっと低レベルなレディースコミックで描かれそうな怖いストーリー。。(昔、梅図かずおもこんなホラーを描いていなかっただろうか?)

親族に障害者がいる立場なので、読んでいてかなり嫌な気持ちになりました。

作者ご本人も心臓が丈夫ではなく、病院暮らしが長かったということですので、その病院暮らしの中でこのアイディアを思いついたのだと思いますが、この手の話は時に人を傷つけることもあるだろうなぁと思ってしまいました。(作者は、傷つくこともそれが人生の試練だと考える立場なのかもしれませんが。。ちょっと納得できない内容でした)。

「二重螺旋を超えて」は、親離れのタイミングをはずすと精神が不安定になる理由を、すごくわかりやすく描いていました。

親はこうあるべき、などという定型はないはずなのですが、社会ではあるべき姿が幻想として強制されているため、定形外の親に出会った場合に、子供はうまく生きることができなくなってしまうものです。

人は基本的に弱っちくて、愚かな動物として生まれてくるのだということを考えれば、親になった瞬間に強くて賢くなれるわけではないということを知ることになり、「ああ、自分の親は弱くて愚かだな。でも、そういうのもアリだよな、もうこの年だしこれ以上の成長は無理なのかもな」と親の成長度合いの限界を温かい目でみてあげることもできるのですが。。

子供にとっては、やはり親が未熟なのはつらい、痛い、、でも、親ばかりが大人ではないので、やはり親以外の成熟した大人を早く見つけて、そちらをお手本として成長してもらうのが正しいと思います。

もしも、子供に見切りをつけられた時点で、その理由を自分が未熟なためだと気がつく親は、今後、成長の可能性あり、子供に尊敬される可能性もあるとおもいます。

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2008年9月 8日 (月)

猫とともに去りぬ 

著者 ロダーリ 光文社

今回も、ロダーリーの「猫とともに去りぬ」の感想です。

「マンブレッティ社長ご自慢の庭」では、思うように花や実をつけない草木を棒で殴ったりして虐待する社長に心をいためた庭師が、自腹を切って市場で花や実を買ってきて庭に植える物語です。社長がバラを鞭でいためつけている間、庭師は、<<見なければ心も痛まない>>ということわざを思い出し、両手を目で塞いでみますが、それでも庭師の心は痛みます。借金してまで花や木をかばいつづけるにも限界になった、庭師は「いいかげんにしてください!」と社長に意見をします。すると社長は「きみはクビだ!」とクビにされてしまいます。やがて社長は団結した草木にコテンパにやつけられてしまうのですが。。

両手を目で塞いで、世界中で起こっている虐待や貧困を見ないふりをして、自分の生活を守ろうとする富める国のひとびとの中で、少しでも心を痛めるひとは「きみはクビだ」といわれたら、あっというまに暮らしに困る人がほとんどなのかもしれません。

「ベファーナ論」はよい話でした。

ベファーナという魔法使いについて書いた私(おそらく作者)に、研究家が、「良くかけているが、ベファーナはいい子だけにプレゼントをもってくるが、悪い子にはもってこない」ということが書いていないと指摘されたときの私と研究者とのやりとりです。

「頭を傘で叩かれるのと、ワイシャツの襟首から氷を一キロ入れられるのと、どちらがお好みで?」

「なんと無礼なことを!よいかね!この私は、騎士とさほど変わらない身分なのだぞ!」

「あなたのほうが、よっぽど無礼じゃないですか!この世に"悪い子供"がいると決めつけるなんて。土下座して謝ってくださいよ!」

「そのカナヅチでなにをするつもりだね?」

「あなたの小指を叩くんです。いやならば、子供というのは一人残らずいい子ばかりだと、いまここで誓ってください。なかでも、貧しくてプレゼントももらえないような子は、みんないい子ばかりです。どうです?誓いますか?」

「ち・・・・誓う。誓うったら」

子供は軍隊式に鍛えないと年長者を敬わないとか、最近の若者は甘やかされて育っているので、ちょっとの困難ですぐ自殺するとか、生かされている感謝がないとか、いいたい放題のKYを最近よく見かけます。

そういう人の中には、自殺したい人は、世界で食べるものも食べられずに貧しい暮らしをしている人の気持ちを知るために重労働を体験させろとなんて言ってる人までいます。

大体自殺したいと考える人のほとんどはうつ病を疑うべきは今では常識なのです。

生きる気力をなくし、仕事がしたい、働きたい、美味しく食事がたべられるようになりたい、、と全身全霊で願っても、思うように体が動かない、、食事もできない、、眠ることもできない、誰の役にも立てない、、だから死にたくなってしまうのです。。そんなこともわからない人は、自殺者を増やすだけですので、心の無いひどい文章を人目の触れるところに掲載しないで欲しいと思います。

秋葉原の事件も、土浦の事件も、人の心の苦しみが理解が出来る人がもっと多かったならば防げたと思うのです。

人の痛みが判らない人がいるかぎり、悲惨な事件は決してなくらなないような気がしてなりません。

ちょっといいすぎでしょうか。。

またとりとめがなくなってしまいましたが、「猫とともに去りぬ」、とても深くて、ユーモアがあり、面白い一冊でした。一読をお薦めしたいと思います。

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2008年9月 4日 (木)

ピアノ・ビルと消えたかかし

著者 ロダーリ 光文社

こちらも「猫とともに去りぬ」のなかの作品です。

放浪のピアニスト・ビルと保安官の対決で、西部劇調のストーリーです。(イタリア人の書いたストーリーなので、マカロニウエスタンかな?)

保安官が投げ縄でかかし泥棒の容疑をかけられたピアニストのビルを捕まえてしまいます。そしてこう言い放ちます。

しょせん音楽なんて無駄ななんだ。山羊飼いにしてみらば、バッハのかわりに山羊が一頭生まれていたほうがどれほどありがたかったかわからない

最愛の音楽家をこきおろされたピアニストのビルは叫びます

その言葉、必ず撤回させてみせる!

まもなくチャンスが訪れます、ビルは力強い演奏をはじめたのです。すると、保安官はあまりの強烈な演奏に両手で喉を押さえどさりと地面に倒れてしまいます、そして

頼む、勘弁してくれ!認めるよ!バッハは偉大なり!

この話で思い出したのは、文化大革命で下放された中国人の画家の先生の話です。

彼は下放されて強制労働をさせられている長い間、絵筆をにぎることが一度もできず、友人のバイオリニストは好きな音楽を演奏することを禁じられていたそうです。そしてひたすら農村で農夫として働くこと以外の仕事を与えられなかったというのです。

人は、農地を耕し、食料を作り。木を切って家を作り。炭鉱を掘り火をおこし暖をとり。綿を紡いで衣服を作れば、それで生きていけるのでしょうか?(水と栄養を取って、寒さから身をまもれば生命としては生きていけると思いますが、それが本当に文明人としての人の暮らしでしょうか?)

音楽を奏でたり、聴いたり。物語を読んだり作ったり。芸術を創造したり観賞したり。スポーツやゲームをしたり見見物したり。ファッションを編み出したり、おしゃれを楽しんだり。料理を作ったり、味わったり。猫や犬と友だちになって一緒に暮らしたり。そんなさまざまな楽しみを自由に編み出して暮らして行く姿が、本来の人間らしい暮らしなのではないでしょうか?

中国人の画家の先生は、あの時代は本当につらかったと語っていました。ただし、悪いのは共産党でも、人民解放軍でもない、怒れる労働者でもない。貧しい人々に、音楽の楽しみや、芸術の美しさや、創造の素晴らしさを知り、体験する機会を与えなかった富裕層に原因があるのだと語っていました。

音楽家や芸術家はただ演奏して、創造するだけを職業としています、今でもそうでしょう。でも、貧しい人にその自分の音楽や芸術の豊かさが届いていないことに気がつくべきだったのです。その点はこの画家の先生は充分に理解して、反省をしていました。二度とそんな世の中になってはいけないと語っていました。

なんて、このストーリーを読んで考えてしまいました。

日本がいつか、音楽も芸術もスポーツもゲームもなんの楽しみもない、ただ働いて食べて死ぬだけの、暗黒時代になってしまうなんてことになったら恐ろしいです。

(そういえば、アフガニスタンのタリバンは音楽もスポーツも(女性は勉強すら)なにもかもが禁止しているようですね。)人の自由な人生の楽しみに思いを馳せない、人が生きてきたその小さな命に思いを馳せない、タリバンの信じる宗教はそのような宗教なんでしょうか。邪教を信じるものは人ではない、そんな宗教なのでしょうか。

人間は日々を楽しむために生まれて来るのかと思っていましたが、そうではない宗教観をもつ人々もいることは確かなようです。。そこまで意見が分かれてしまった相手と、いつか話が通じる日がくるのでしょうか。

いろいろな考えの人が、争わずに平和に棲み分けでするには、地球は狭すぎるんですけれどね。

自分勝手に生きるには狭すぎる星に住んでいるのだからゆずりあいと遠慮が肝心だと思うのですが。。これも「わたしはあなたとは違うんです!」とか言われてしまったら話が終わりなのだろうなと思い暗澹な気持ちになってしまいました。。

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社長と会計係

著者 ロダーリ 光文社

いちばん偉大なチャンピオンこそ、誰よりも謙虚なものだ。あまりに謙虚すぎて、その名前すら知られていない。毎日驚くほど重い荷物を肩にかついで生きているのに、インタビューを受けようなどとは夢にはおもわないのだから。

イタリアではかなり有名な児童文学者でジャーナリストだったという著者。

本書はファンタジー「猫とともに去りぬ」という短編集のなかの作品。大人向けのきがしますが、それとも、イタリアのこどもたちはこんなシュールでブラック満載の物語を日常的に読んでいるのでしょうか。。そうだとしたら、彼らのユーモアセンスが培われるのも納得しました。

どんなものでも持ち上げることの出来る、力持ちの会計係が、社長や恋人にリフティングのチャンピオンになれる、オリンピックに出れば優勝できると言われます。でも、力持ちの会計係りは話に乗りません。オリンピックに興味がなかったのです。

この物語は最終的に冒頭の言葉で締めくられます。。1973年に書かれた物語ですが、なんだかタイムリーに思えます。

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