カテゴリー「友人の死」の記事

2016年11月22日 (火)

マツシマさんの死

中国語教室での大先輩。飲み仲間。83歳のマツシマさんが、9月28日に83歳で亡くなられました。亡くなる直前まで、同級生を先導して、高尾山にのぼり。昨年、一昨年と世界各地の7000メートル級の山に登る、登山家。冒険家でありました。

おだやかに、わたしのような若輩者の話に耳を傾けてくれ、そして、世界中で体験した豊かな話を沢山私たちクラスメートに聞かせてくれました。
飲み会でも、みんなマツシマさんの隣に座りたいと、多くの若い仲間に囲まれて、慕われて、なんて素晴らしい、うらやましい人生だったのだとう。。
いまでも、あの優しいにこやかな笑顔に、もうお会いできないのがとても信じられません。
80歳を過ぎても強靭で、歩く速度など私の2倍くらい、「お疲れ様」と声をかけられるとあっというまに遠くに歩き去ってしまうほどでしたが、数年前から癌を患われ、それでも山に登りたいからと、積極的な治療は行わず、最後の最後までやりたいことをされて旅立たれました。。最後にお会いしたのは7月の終わりの暑気払いの飲み会。。それから2か月であっというまに旅立たれてしまいました。。
お別れ会には100人以上の友人が集まったということで、80歳を過ぎて、会社勤めもしていないのに、これほどの参列者がマツシマさんの死を悼んでいたのだと、あらためて、素晴らしい人と短い期間でしたが、お付き合いできたことを、感謝したいと思います。
83歳の方が旅立っても、長寿だ、大往生などとは思えない。不在の悲しみというのはあるものなのですよ。。

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2016年1月12日 (火)

8回目の命日

7回忌まで毎年1月9日に亡くなった命日を忘れ数日すぎてから思い出していたのですが、今年は前日に明日はYの命日だなぁと思い出しました。

これはどうしてだろう、、8年経って、漸く彼を痛烈に思い出す人の数が減ってきて、わたしも命日近くに彼が秋波を送ってくれるようになったのだろうか?
などと思ったりなんかして。。
恋人には一度もなったことのない彼ととても馬が合い、ほとんど一緒の日々を過ごしたのは、10代後半から20代前半の頃。その後は、ほとんど会うことも少くなったのに、それでも彼が突然亡くなってからものこの8年の間、何度も何度も、彼の不在をおもいだし、悲しみに暮れていました。
友人というのは、むしろ、毎日すごす家族と違い、会おうと思えばいつでも会えると高を括ってしっていた存在だから、逆に突然この世から完全に存在しなくなった時、その不在の悲しみは、毎日会っていた家族とは違う次元の喪失感と悲しみなのかもしれません。。。
それにしても、もう絶対に、二度と彼と会って話ができない、考えを聞けないというのが、こんなに不自由で理不尽なことだとは。。

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2015年11月11日 (水)

T氏の命日

11月8日は2010年に亡くなった尊敬する先輩、T氏の命日でした。

なのに、T氏より亡きM兄のことで今週は頭がいっぱい。。
理由は、
2005年10月27日に亡くなったM兄の10年祭の偲ぶ会を今週の週末にM兄が集めた飲み会仲間で開くことになっていて、今回はM兄の遺影を用意して、一緒に影前で飲みたいと思っていたのに、、、
なんと、写真は前世代の(2005年ごろの)PCの中にあり、しかも、バックアップしてなくて、昨日から、そのPCをひっぱりだして、DVDやらCD-Rやらフロッピーやらにコピーできないかと、総動員したけれど、古いパソコン過ぎて、全然だめで、、LANの設定すればなんとかなるのかもしれないけれど、てっとりばやく、結局、PCの映像をデジカメで撮影して印刷して、無事遺影を用意できました。。なんというアナログ。。
というよりも、デジタルの恐ろしさを思い知りました。
ゴーン。。撮った写真はちゃんと印刷してアルバムにはっておこうね。。
それにしても、T氏は、交友関係ががあまりにも幅色くて、偲ぶ会、、きっとどこかで行われているのですが、私は呼ばれていませんでした。。
3日遅れましたが、大好きだったT氏のこと、ひとりで追悼したいと思います。。
それにしても、、大好きな友人ほど、先に旅立ってしまう。。ように思えるけど、、気のせいなのでしょうか?

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2015年11月 1日 (日)

友人の死

25年来の友人のFのお兄様から、昨日友人の訃報が届ききました。

ホスピスに入院したという連絡を友人からメールでもらった9月のはじめからあと、送った病院への手紙やメールの返信がなく、ずっと心配していたところ、なんと入院から数日後の、9月10日午前1時13分に旅立ってしまったというお知らせでした。
9月7日に入院の一報を友人から、メールでもらい、その週の土曜日に、都内の厄除け神社にお参りし、病気平癒のお守りをもらって、発送したのだけれど、、その時すでに、友人は旅立っていて、お守りは間に合わなかったのです。。とても悔しい、、悲しい、、
長い付き合いだけど、それほどいつも一緒に過ごした友人ではありません、、
年に会うのは多くて数回、、でも、田舎の両親よりは、よっぽど会っていた、、そんな長いつきあいの、つかず離れずの友人なのです、、
長いつきあいの友人って、、いつも必ずそこにいると思ってしまうくうから、家族より後回しにしてしまいす。。そして、気が付くと、二度と会えなくなってしまう。。そのたびに、いつでも会える、そんなことで友人後回しにしてはいけない、、今回もそんな悲しみで動揺しています
毎日一緒に暮らしてきた家族の喪失は深い悲しみ、たとえば、骨折とか、内臓破裂とか、それくらいの激い痛みなのかもしれません、、
でも、年に数回しか会わない友人の喪失は、、なんというか、家族の受ける悲しみのように、深く激しくはないけれども、それでももう、とてもとても辛いのです。
もちろん、遺族の悲しみからしたら大したことないと見えるし、実際、痛みの程度も比較にならないのかもしれない傷かもしれません。
たとえば、棘が刺さった痛み?ガラスの破片を踏んだ痛み?口内炎の痛み?胃痛?、目にゴミが入って痛くて目があかない?そんな痛み?辛いことでは、きっと遺族の受ける痛みとは違う、ゆるい痛みなのです。でも、ずっとずっと永遠にそんな痛みが続くのです。。

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2015年10月27日 (火)

日本シリーズと命日

10年前、M兄の命日の前日の26日は日本シリーズの阪神対ロッテ戦でした。

阪神ファンのM兄は自宅でテレビで日本シリーズを見ていました。
そして阪神は負けました。。
M兄が亡くなる直前、一番最後に友人に送ったメールは「阪神まけて悔しい」でした。
そして、翌日、深酒が元で、もともと体に麻痺のあったM兄は、嘔吐物を咽喉につまらせて窒息してなくなってしまいました。
だから、もしもあの日阪神が勝っていたら、M兄は死ななかったのではないか、なんてつまらぬ恨みを思ってしまうのです、、でもきっと阪神が勝っていたら、祝い酒でもっと飲んでいて、、結果は一緒だったのかもしれません、、、
M兄の生死と日本シリーズ、、因果関係があるのかどうなのか、
そんなことを考え始めると、日本シリーズ前半の当時の千葉ロッテのスタジアムのチケットをM兄が持っていて、誘われたのですが、都合がわるく断りました。このとき一緒に千葉ロッテマリーンズに行っていれば、M兄は26日にそこまで熱くならず、今でも生きていたのかもなんて、そんなことも何度もかんがえました、、本当のことは、わかりません。。だからこそ、後悔が今でづっと続いてしまうのです。
どんなに考えてもM兄はもう生き返らないのに、、、

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10年目の命日

今日はM兄がなくなって10回目の命日です。

毎年、金木犀の香りのするころに、もうすぐ、M兄の命日だなぁと思い出します。
なんともあっという間だったのでしょうか。それでも、ふとあるたびに彼を思いだします。
M兄がメンバー募った飲み仲間の会、10年たった今でも続いているよ。
M兄がいたらなぁ、いたらいいなぁと、今でも悲しみがなくなりません。
最後に車椅子のM兄と一緒に歩いた新宿高層ビル街。都庁の夜景に感動していたM兄の顔。あれから10年も経つのかとは信じられません。
生まれつき全身に麻痺があって生まれてきたM兄に最大の愛を注いで育ててこられたご両親の悲しみを思うと、そして、その愛にこたえようと、明るく、誠実に、懸命に暮らしていたM兄の無念さを考えると、10年たった今でも、残念でなりません。
M兄のお母さんは自分の悲しみをこらえて、「息子が友達をこんなに悲しませて本当にもうしわけない」と気丈におっしゃっていた立派なお母様でした。天国から、あの、優しい笑顔で、ご両親を今でも見守っていてあげてほしいなと思ってしまいます。
もういちど、みんなで飲みに行きたいよ。M兄。。。

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2014年8月 9日 (土)

友人を思い出す

このごろ頻繁に、2008年の1月に亡くなった友人のことを思い出す。

もう7回忌も迎えてしまったのに。

どんなときに思い出すかというと、本屋で本を探しているとき、面白い本を読んだとき、時に泣きたくなるほど彼のことを思い出す。もう、彼とは、読んだ本の感想について、語り合うことができないんだ、昔よくふたりで新宿の紀伊国屋に行ったなとか、、一晩中、読んだ本の話を、電話口で語り合ったなとか、、今では、そんなことができる友人は一人もいない。
昨日、文筆家だったその友人が出版した本をなにげなく書棚から取り出して、彼のプロフィールを読んでいたら、学生時代トーマス・マンに傾倒と書いてあった。
そんなこと、聞いたこともなかった。友人のことで、知らないこともたくさんあったのだと思う。そんなわたしは、つい最近、トーマス・マンに傾倒し始めたところで、本当に語りたいよ、今こそトーマスマンのこと、語りたいよ、、、またも悲しみでいっぱいになってしまいました。
七回忌も過ぎて、実際の彼が本当はどういう風だったか、だんだんわからなくなってきています。きっと思い出の中で、理想の人物のように姿を変えてしまっているのかもしれません。
でも、いいところも、悪いところもすべて含めて、実際はどんなだったか、もう一度確認してみたいのです。
人が亡くなってしまい、この世からいなくなるというのは、そういうことなのかもしれないと思います。どんなに悲しくても、どうしても解決できなのです。

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2014年1月21日 (火)

友人の命日

2008年1月9日に友人が亡くなったのに、去年もおととしも、命日を忘れていました。

松の内に亡くなるとその他のイベントが多すぎて命日を忘れがちなのでしょうか。

思い出したのは昨日、、義理の父が生死の境を彷徨っていることを考えているときに、ふと、亡き友人のYの顔が浮かんできたのです。およそ義父の半分の年齢でなくなってしまった友人。10代の後半から20代の間、もっとも長い時間一緒にいた友人。その友人が亡くなってから、なんと6年もの月日が過ぎてしまったのだ。

ことあるごとに、友人だったらどう考えるだろう、友人だったらどう行動するだろう、そんなことを考えながら年月が過ぎてきたような気がします。大切な大切な友人だったのに、どうして毎年うかつにも命日を10日くらい過ぎてから友人のことが思い浮かぶのでしょうか?

きっと、葬儀でも400人以上の参列者に見送られた、多くの友人がいたYのことなので、だれかの念頭に登場するように、命日から順番に回っていて、わたしは10日後くらいの順番なのかもしれません。10日目に声かけにきてくれてありがとうというところでしょうか。

いまでも、地下鉄のエスカレーターや、街角で、友人Yに似ている人を見つけると、どきっとしてしまうことがあります。なんだ、生きてたんじゃないの!なんて、そんなはずないのに思ってしまったり。。

そうか、、それにしても、もう6年もたってしまったのか。。この世界にYがいないという寂しさはまったく変わっていません。

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2013年10月27日 (日)

8回目の命日

今日は37歳の若さで亡くなったM兄の8回目の命日です。

金木犀の薫りの季節になるたびに、ああ、もうそろそろM兄の亡くなった日が近づいてくるなぁと毎年思うようになってしまったのですが、もう8年も経ってしまったことに驚きも感じてしまいます。M兄が可愛がっていた甥っ子たちも、大きくなってしまったのだろうな。ご両親もお年を召したに違いない、、

最近、久しぶりに、あの頃のM兄からのメールを読み返してしまいました。
内容はほとんどが飲み会の相談、前回の飲み会は楽しかった、次回はどこにいこう、そんなメールを読んで、とても不思議な感覚になってしまいました。

M兄がいなくても、普通に生活してきたけれど、もしもこの8年間にM兄がいたらどうだったのだろう、そう思ってしまます。

自分の人生から、少しずつ大切な親しい人が欠けて行くこの感覚はなんなのでしょう。

私を溺愛してくれた祖父の死。そして親しくなったばかりではあったけれども、毎日のように会話をして、脳性まひの不自由な身体で、電動車椅子で街を疾走していたM兄の急死。さらに辛かったのは、学生時代から20代のころまで殆ど毎日のように一緒に過ごした、最も親しかった友人Yが急死してしまったこと。また、こういう人物になりたいととても尊敬していた優しい大先輩T氏が急死。次々と若い命を使い果たして、向こう側へと旅立ってしまう大切な友人たち。
そのたびに、自分の体の一部が、手足が少しずつ少しずつ欠けて行くような気がするのです。何かが足りない、上手く真っ直ぐに歩けない、そんな気持ちになるのです。悲しみや慟哭といった思いではないのです。当たり前だと思っていた存在が、欠けている、今までの自分とは自分が違う存在になってしまったといったような、とても不可思議な感覚なのです。

今年は祖母が98歳でなくなりましたが、10年前から寝たきりで、意思の疎通もできなくなっていたので、祖母を実際に失ったのは10年前、私は両親よりも、この祖母を最も頼りに子供の頃育ってきたので、最大の保護者を失った喪失感が大きく、生きていくと言うことは、愛する人を失っていくということなのだなぁと、つくづく思ってしまいます。

ただ、いまでも、友人との交流、会話、祖父母の眼差し、それはもう、自分の脳内に強く焼きついており、友人や祖父母は、その限りはどこかで生き続けているのだろうなぁと思います。そして、いつかは自分も死に、関係者は全て亡くなり、私達の日々の暮らしも、だれも思い返さない、遠い、遠い昔になるのだろうな、、そんなことは判っていても、生きている間はやはり失うことは寂しいことだと、年を重ねるにつれて、どんどんとそのことを知っていきながら、日々を送ることになるのでしょう。
なんだか、まとまりのないM兄の命日について思うところでした。

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2013年5月23日 (木)

バリアフリーの思い出

乙武さんの車椅子入店拒否の話は、沈静化したようですが、私の記憶が刺激されて、M兄との車椅子騒動の別の出来事を思い出しました。

いまは閉館してしまった六本木プリンスホテルのプールサイドのビアガーデンでの飲み会の時です。プールサイドと聞いただけでも車椅子OKなの?的な、バリアブルな感じがしますよね~。
プールサイドだもん!もちろん段差ありますわよ。
M兄がトイレにいくとき、重たい電動車椅子を4人がかりでホテルの従業員の人がトイレまで運んでくれました。
でももっとハートフルだったのが、M兄がちょっとでもなにか動こうとすると、周辺の宴会で盛り上がっていた団体の人たちが、必ず、手伝いましょうか、と気軽に声を掛けてくれたことです。どのひとたちも、お酒も入っていたのに、、みんななんて優しいんだ!と本当に感謝しました。、、というか、最後にちょっと手伝ってもらったと思います。
車椅子の人を邪魔だっておもうひとは、実は自分がどうしたらいいか不安に思っている人が多いのかもしてません。ほんとうは役に立ちたいけど、どうしたらいいかわからなくて、歯がゆく思っている=邪魔って思っちゃう、そんなひとが多いんじゃないかと、今回の件も含めて、再度思い出した次第です。
あのとき、旧六本木プリンスホテルにいた従業員の皆様、そしてお客さんたち、本当にありがとうございました!

ところで、M兄は、だいたい飲み会では幹事をしていましたが、自身の入店までにいたるバリアー情況、肝心なトイレの問題があるので、必ず人を誘う前に目星をつけた店は下見をしていました。亡くなる前の最後にM兄と会った日も、次回の飲み会の下見につきあった時だったんだよな。。、そんなこと思い出して、またもや心がずきずきしてきました。。

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